勲章・軍装品・軍服など

中野区: 即日出張にて、軍服、勲章、真鍮の印泥入れ、楽焼のグイ飲み、古書を買取させていただきました


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今回お譲りいただきました、第二次世界大戦中の指揮官として戦史に名を遺された某陸軍大佐(死後に中将となる)の遺品を紹介させていただきたいと思います!※プライバシー保護のため名前を伏せさせていただきました、ご了承くださいませ。

お譲りいただいた遺品の中には、ご本人が使用された大礼服から軍服の装飾品、未使用の襟章や勲章などがございましたが、特に写真の数々には今となっては見ることが出来ない貴重な様子が記録されておりました。
この陸軍大佐の簡単な経歴を記載させていただきますと、陸軍士官学校を卒業後ドイツに留学し、帰国後は横浜専門学校、陸軍士官学校のドイツ語教師などを経て、1940年に某連隊の連隊長に就任します。
当時の軍人と言えば豪傑なイメージがありますが、氏は学者肌の軍人だったということで、写真帖にはピアノを奏でる写真も含まれておりました!着物にピアノ、大正ロマンを思わせる一枚ですね。

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また1937年には朝鮮・安東の陸軍学校(?)にも赴任しており、当時の日記帳も残されておりました!
日記帳を紐解いてみますと…
「6月11日(金)晴 大分生徒の行儀が悪いので河内大尉のいやみあり。生徒一同を集め教官の顔に泥を塗るなと訓示する所あり。実際生徒の行動は公明正大でなく不快なり」と指導者らしい記載もありつつ、ほかにも日々の軍の行事などについて人間的な冷静な感想もみられるので「学者肌の軍人」だったという人物像にも納得ができます。
注目は日中戦争(当時は支那事変、日支事変などと言われた)の勃発時の日記!!
「…北支事変(ママ)に関しての準備なり…」などの記載があり、当時の軍人の様子を如実に知ることが出来ます。
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そして、このような時代を経て、1943年頃フィリピンのレイテ島に移駐したことが、その後の氏の運命をかえます…。

レイテ島の戦い(レイテとうのたたかい)は、1944年(昭和19年)10月20日から終戦までフィリピンレイテ島で行われた、日本軍アメリカ軍の陸上戦闘である。日本軍の当初の作戦では、ルソン島では陸軍が中心となって戦闘するが、レイテ島を含む他の地域では海軍及び航空部隊により戦闘する方針だった。ところが台湾沖航空戦で大戦果をあげたと信じた大本営は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官・山下奉文大将の反対を押し切り、作戦を急遽変更して陸軍もレイテ島の防衛に参加して迎え撃つこととした。ルソン島に配備されるはずだった多くの陸軍部隊がレイテ島へ送られたが、輸送途中で大損害を受けた。日本軍は補給の見通しが甘かったことから多くの餓死者を出した。約2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった(Wikipédiaより)

以上のように第二次世界大戦史のなかに特記されるほどの激戦となったレイテ島の戦いですが、この陸軍大佐も敵の砲弾を受けながら奇跡的に生還しましたが数日後に自決をされたとのことでした。日本軍の戦死者は 79,261名。本当に戦争は恐ろしいと実感させられますね。

今回お譲りいただいた写真には、氏がレイテ島に移駐した1943~1944年10月までのものが数十葉あり、激戦直前のレイテ島の様子を撮影した歴史的なショットがたくさん含まれておりました。
そもそも第二次世界大戦は、当時日本では大東亜戦争と称されており、1941年の真珠湾攻撃後、国際社会から孤立した日本は、連合軍側から資源の輸入を止められてしまうという状況に陥ったため、あらたな資源を求めるべくフィリピンやマレーシアなどの南方地方の国々を占領していき「大東亜共栄圏」を築き上げていきます。
その大東亜共栄圏時代のフィリピンの様子を記録したスナップ写真はかなり貴重といえますが、その理由としては「撮影できる人間が限られていたこと」「激戦のために写真が消滅」してしまったことがあげられるかと思います。そんな状況の中、激戦前の数ケ月間に内地の家族へ沢山の写真を送っていたことが、これだけの写真が残った理由になります。

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1943年夏に撮影されたこの写真の裏面には「俘虜訓化所修業式」とあります。俘虜とは捕虜のことですが、訓化所とはどんなところだったのでしょうか?日の丸を掲げ、日本軍人が現地人に訓示を行っている様子は、当時の様子を象徴しているように思います。

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上写真と同時期に撮影されたこちらの写真には「コンセプションにて」と書き込みがされております。例えば「演説」や「訓示」と記さず、コンセプション(=「英語、フランス語で概念受胎などを意味する。(Wikipediaより)」)と記入してあるところに当時の日本軍の思惑をくみ取ることができます。

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こちらは現地の町長、知事、警察隊長らと撮影した一枚で、移駐した挨拶に訪れたときに撮影されたものでしょうか。割れた窓ガラスの目隠しに、当時日本で発行されたプロパガンダ写真誌が貼付されているのが、素朴で面白くもあり、どこか意味深な印象を受けます。

平和な時間が流れているような写真の数々ですが、これら写真が撮影された1年ほどの間に多くの命が奪われた「レイテ島の戦い」が勃発するのです。
1944年10月23日に 氏が自決したのちも戦いは続けられ、その2日後、レイテ島市街地を占領しかけていた米軍に対して「日本軍斬り込み」というとんでもない作戦が遂行されました。
当時の新聞によれば

『部隊長も斬込み(新聞名不明)』
「○○部隊長は自ら手兵数十名を引き連れて廿五日夜高地からタクロバン市街の敵陣地目がけて殴り込みを敢行、敵兵どもを震撼せしめた、
この部隊長自らの斬り込みは同戦線の最悪事態を示すものでなく旺盛な攻撃精神が抑へ切れず遂に同部隊長をして奮然突撃敢行をなさ
しめたものでこのため同部隊の士気はますます昂っている」

とあり、実際には部隊長であった氏は自決しているので作戦には参加しておらず虚報といえるでしょう。しかし報道する側もかつてのような美辞麗句を並べ立てて過大な戦果報告をするという姿勢はありません。日本軍の被害は一切記されてはおりませんが小さな記事にまとまられ、どこか負け戦が想像できるような記載になっています。

そして10月28日、氏なき部隊は玉砕。
これらの写真に写り込んでいる軍人や兵隊の殆どが、米軍との激戦で戦死したと思われますが、フィリピン現地の人々も犠牲になったのでしょうか?

氏の戦死は新聞でも報道され、東京湾要塞司令部の司令官で、かねてから友人関係にあり一時期はフィリピンにも移駐していた陸軍中将・大場四平(1890-1963)は氏の戦死の報せを受けて以下のような書簡を、1945年1月に遺族へ送付しています。

「(略)忠誠一徹なる閣下の御性格よりすればタクロバン附近に於ける斬込戦の御勇姿も眼前に髣髴として来り定めし鬼神を泣かしむる壮烈無比而も武功抜群なりしものと確信(略)茲に謹みてご生前に於ける深甚なる御友情を深謝し併せて敬弔の誠を捧げ候」

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大場四平陸軍中将の人柄が垣間見れる書簡ですね。
そしてレイテ島の激戦から1年も経っていない1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏で敗戦となったわけです。

くまねこ堂では陶磁器、書画などの骨董品以外にも、日本軍に関する軍服、大礼服、刀緒や勲章などの軍装品、古写真まで幅広く買取をさせていただいております!

byこばちゃん


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パソコンソフト、怪獣消しゴム、ソフビ、帰ってきたウルトラマン、ミニカー、ミクロマン、サンリオ Sanrioグッズ、ゲームウォッチをお譲りいただきました@三鷹市にて

お譲りいただいたお品のなかには、戦前に使用されたオリジナルの「大日本国防婦人会の襷」がございました!

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大日本国防婦人会は昭和7年から17年まで存在した団体で、主な活動としては「出征兵士の見送り」「留守家族の支援」「慰問袋の調達と発送」などが挙げられます。

当時の写真や再現VTRなどで、着物姿に白い割烹着、そしてこの襷をかけて日の丸の旗を振る女性たちの姿を見たことありますよね~

日本国民のすべてが戦争に巻き込まれ、筆舌に尽くしがたい生活を強いられた時代、「兵隊さんは命がけ 私たちは襷がけ」というスローガンのもと、銃後の生活を耐え抜いた女性たち…。

 

この「国防婦人会襷」はレプリカも販売されているようですが、本商品は「牛込第六」のマークが入ったオリジナル品になります!

サイズがかなり小さく、いかに当時の日本女性が小柄だったかを知ることができますね。

戦時中関係資料、ミリタリー関係資料は現在でも人気が高く、くまねこ堂では軍服や軍装品、戦中の生活用品、満洲関係の資料などの買取もさせていただいております!

 

こばちゃん

【品川区南品川】陸軍、軍服、ストール、写真乾板、食器類、カメラ、双眼鏡、民芸品、古銭などをお譲りいただきました


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【品川区南品川】軍服、ストール、写真乾板、食器類、カメラ、双眼鏡、民芸品、古銭などをお譲りいただきました

 

今回は稀に見る超美品な陸軍の軍服を入荷いたしました!
見て下さい、この色と艶!約80年以上前に誂えたものとは思えないほど状態が良好です。
しかし「5尺の身体」が平均とされていた当時のものなので、現在の平均身長ほどある男性にはかなり小さめになって
おります。

軍服

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襟章のデットストックもあり、階級はなんと大佐!!!
新しいものを使用する前に終戦を迎えてしまったのでしょうか。

真鍮でできている双眼鏡も状態は良好で、どんな方がどんな風景を見てきたのか想像が広がります:nezumi:

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また古い写真乾板も買い取らせていただき、その中には昭和初期ののどかな家族風景を写したものも含まれて
おりました:roll:
お父さんとお母さんに囲まれて、楽しい夏休みを謳歌する子供の表情は、いつの時代も変わらず幸せそうです:crown:
ロールフィルムやシートフィルムが使用される前、写真の撮影には薬品を塗ったガラス板が使用されており、これを
「乾板」といったそうです!

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恐らく写真師を依頼して、組立暗箱と呼ばれる大判カメラで撮影されたものと推測ができます。
貴重な昭和風俗の資料ですね!

お売りいただき、ありがとうございました!!

by こばちゃん

 


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東京都小金井市にて、ザ・タイガースのファンクラブ会報、銀杯、ペナントなどをお譲りいただきました。


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勲六等瑞宝章 ・大正4年 大禮記念章・明治21年 日本赤十字金色特別社員章を買取いたしました。

誠にありがとうございました。

zuihoushou meiji taishou 

 

古い勲章・褒章などの買い取りでは、お客様の口コミにより、お陰様でよい評価をいただいております。

出張買取のご依頼はこちらへ

0120-54-4892

 

byキョーコ


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ケロッグのおまけ、中国書画のまくり、ジノリの食器や煎茶器、古銭などを出張買い取りいたしました。[東京都世田谷区]


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  くまねこ堂は365日営業!! ゴールデンウィーク中も休まずに出張買取を行っております

 

功五級金鵄勲章を買取いたしました。

誠にありがとうございました。

 kinshikunshou

 

 

byキョーコ


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戦前の内務省官僚ご遺族からサーベルと短刀をお譲りいただきました[東京杉並区にて]


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東京都杉並区にて、戦前に内務省の官僚であった方のご遺族から、サーベルと短刀をお譲りいただきました。

リピーター様からの買取品です。誠にありがとうございました。

guntou tanken sabel

刃はついていません。

警察官僚の方だったのでしょうか。

無知な私などがサーベル本体から種類を見分けるのは難しいです。。。

byキョーコ 

 


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日露戦争時の戦没慰霊塔 表忠塔のブロンズオブジェを買取いたしました[東京都文京区白山にて]


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東京都文京区にて日露戦争時の戦没慰霊塔 表忠塔のブロンズオブジェを買取いたしました。

誠にありがとうございました。

hyouchutou nichirosensou

中国旅順、白玉山の表忠塔です。

大変珍しいお品ではないでしょうか?

高さが30センチ以上あり、どっしりと重いです。

byキョーコ

 


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珍品!昭和11年上海海軍特別陸戦隊 戦闘競技 賞品の硯箱をお譲りいただきました。[東京都品川区にて]


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 東京都品川区にて、昭和11年上海海軍特別陸戦隊 戦闘競技 賞品の硯箱をお譲りいただきました。

誠にありがとうございました。

nihonkaigun shohin suzuribako

上海海軍特別陸戦隊は略して上陸(シャンりく)。

大日本帝国海軍が上海に権益保護のために駐留させていた陸戦隊で、

昭和7年以降、日本海軍で唯一の常設の陸上戦闘部隊となったそうです。

Wiki参照

 

こちらは戦闘競技の賞品ということですが、どんな競技だったのでしょうね。:neko:

byキョーコ

 


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東京都内にて、海軍指揮刀をお譲りいただきました。


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 東京都内にて、海軍指揮刀をお譲りいただきました。ありがとうございます!
今回お譲りいただいたのは、旧大日本帝国海軍で使われていたと思われる常勤時に携帯する短刀タイプの軍装品です。

海軍指揮刀

年季入ってます…!:cool:

少し調べてみたところ、軍刀は刃の脱落を防ぐ「刀身留め」という機構が組み込まれていて、ボタンを押さないと刃が抜けないようになっているそうです。

海軍指揮刀

これに気が付かず、しばらくの間「あれ、鞘から抜けない?」と一人慌てていました。
恥ずかしいです…。:cat_6:

by タノ


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日本帝国海軍士官 剣帯ベルト付きの短剣をお譲りいただきました

 


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日本帝国海軍士官 剣帯ベルト付きの短剣をお譲りいただきました。

誠にありがとうございました。

 

nihonkaigun shikan tanken

 

日本軍の軍刀は時折入荷いたしますが、ベルト付きは珍しいです。

状態がよく、大事に保管されていたように見受けられます。

 

byキョーコ

 


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神奈川県横浜市金沢区にて、シガレットケースや万年筆、従軍記章をお譲りいただきました。


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神奈川県横浜市金沢区にて、フェアレディZやニュークラウンのシガレットケース、パーカー(PARKER)の万年筆、支那事変従軍記章をお譲りいただきました。

 

yokohamasi kanazawaku

 

シガレットケースは、フェアレディ 2800Zとニュークラウン。

fairlady 2800 z

new crown

 

従軍記章は支那事変のものです。

 

sinajihen jugunkisho

 

byキョーコ

 


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神奈川県横須賀市にて、業者を経由して南極観測船「宗谷」第二次観測隊帰港式の紙資料をお譲り頂きました。


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 神奈川県横須賀市にて、業者を経由して南極観測船「宗谷」第二次観測隊帰港式の紙資料をお譲りいただきました。

封筒の中には観測隊員御家族へ来場に関するお願いの手紙、帰港式式場案内略図、新聞記事の切り抜きが入っていました。

 

封筒の宛名は前回までブログ記事に登場していた軍艦比叡士官(1/5記事1/9記事)で、帰国する隊員は士官のご子息です。

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第二次観測隊は、1957年10月21日出航、1958年4月28日帰国です。

悪天候や船の問題などにより南極で越冬できず、やむなく樺太犬を置き去りにせざるを得なくなりました。

後に南極物語として有名になったあのタロとジロの、といえばお分かりになる方が多いと思います。

 

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封書の差出名は南極地域観測統合推進本部本部長と、海上保安庁長官です。

 

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宗谷は東京湾の日の出桟橋に帰港。

 

帰港式式典においてのお願い

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同封されていた新聞記事。

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士官のご子息は東大附属病院勤務で宗谷では医療担当であったのですね。

 

「ご苦労さん、元気でなによりでした」と家族に迎えられ、

「越冬できなかったのがなにより残念です」と悔しさをにじませたとの事。

「無事帰国したし、今度は結婚式ですよ」と、両親の本音もしっかり記載されています。

 

 

戦前から戦後にかけて、あるご家族が保管されていた大変貴重な資料を拝見することができました。

次はどなたの手に渡るのでしょう。

しばし、くまねこ堂の倉庫で待機です!!

byキョーコ

 


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神奈川県横須賀市にて、業者を経由して軍艦比叡士官のご遺族から戦前のスクラップブックをお譲り頂きました。


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 神奈川県横須賀市にて、業者を経由して軍艦比叡士官のご遺族から戦前に作成されたスクラップブックをお譲り頂きました。

前回ご紹介したのは戦後すぐの日誌でしたが、こちらは遡る事9年。

スクラップブックの背には「一高入学の思い出集」とあります。

ご子息が昭和12年に一高(帝国大学予科)に合格/入学された際の紙資料になります。

 昭和12年といえば、日中戦争勃発、ナチスのゲルニカ空襲のあった年です。

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では早速、

ご子息から呉軍港内軍艦比叡士官のお父上に宛てた電報

「オヤヂ ヨロコベ 一コウ パス」

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お父上からご子息に宛てた電報

「カッテカブトノヲシメヨ オヤヂ」

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お父上から改めて毛筆のお手紙

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ご子息から父上へお礼の手紙

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2月7日の新聞も挟まっていました。

右下赤枠に氏名入りで合格速報

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こちらは東京高等師範学校ということなので、東京教育大学(現・筑波大学)です。

一高と高師の両方に合格したのですね。優秀!!

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たくさんのお祝いの手紙やはがきが入っていました。

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洋品店からは営業の、一高ラグビー部からは入部勧誘のハガキ!

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当時は皆寄宿制度(全寮制)であったことから、寄宿寮委員から「入寮の心得」(びっしり。。。)

「一高生タル以上時ト所トヲ問ハズ制服制帽又ハ和服ニ袴ヲ着用スベシ。」などなど

防寒具も黒色マント以外は禁止、襟巻もダメ!とあります。

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同じく寄宿寮委員から、「新入生諸君に告ぐ」

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 第一高等学校生徒主事から「新入学生諸君」

抑抑高等学校は男子の高等普通教育を完成するを以て目的とし特に國民道徳の充實に力むべき國家の教育機関である。

即ち高等普通教育を授くると共に人格を陶治修養する所である。~

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入寮後、お父上から生活費?を受け取った際のお礼の手紙

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父と息子の心温まるやり取りに加え、当時の一高の校風が伝わる紙資料も貴重でした。

どの印刷物も大変規律が重んじられています。

 

時代はすっかり変わりましたね。

現役の東大生が読んだらどう思うでしょう。

 

来週はセンター試験です。

受験生の皆さんがベストを尽くせますよう、お祈り申し上げます!!:neko:

byキョーコ

 


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神奈川県横須賀市にて、業者を経由して軍艦比叡士官のご遺族から日誌をお譲り頂きました。


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あけましておめでとうございます。

本年も買い取り品をドシドシご紹介できたらと思っております。

どうぞ宜しくお願い致します。

 

2016年第一回目は、業者を経由してお譲り頂いた軍艦比叡士官の日誌です!

 

日付は昭和21年1月1日から3月29日まで。

戦後間もない日本の様子を軍人の視点から読むことのできる貴重な資料です。

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書き出しは、

「敵軍の占領下に第一回の新年を迎へた。」

天皇制、マッカーサ、神人一体、君民一体、軍閥などの言葉が続きます。

 

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昭和19年パラオに赴任していた弟さんが1月2日に帰宅!

「一家揃って夜の更けるまで語りはつきなかった。」

饑餓(飢餓)に瀕する食料事情の中で軍紀の維持の為に多くの犠牲が払われたことにも触れられています。

 

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「グラマン」六機の銃爆撃を受けて戦死した幼なじみのこと、

進駐軍を招待する宴会が数度開かれたこと、

自決した公使遺髪をご遺族に面会して渡す旨など、、、

 

肉筆ゆえ、書き手の気持ちが重く生々しく伝わってくるように感じました。。。

 

byキョーコ

 


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東京都世田谷区にて、1919~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所資料をお譲り頂きました。


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東京都世田谷区にて、1919~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所資料をお譲り頂きました。その4

収容所内でドイツ語の通訳をしていた方の記したノートです。

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輸送中、俘虜心得 1919年1月1日

左ページに日本語、右ページにはドイツ語。

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↓ 日本語のアップ。特に厳しいことは書かれていませんね。DSC09052

 

俘虜郵便物検閲要領

(我同盟國ニ居住スル敵國人ト敵本國トノ通信ヲ禁セシムル~など)

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↓ 左ページ:俘虜毛髪皮膚識別人員表 大正八年五月調

欄外の備考 本表ハ似島俘虜収容所俘虜四九三人ニ付調査セリ

毛髪別に観察スレバ金髪最モ多シ

皮膚別に観察スレバ赭(あかつち)最モ多シ

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↑ 右ページ:大正八年度俸給表(年額)

大将7,800から少尉783まで。単位は円でしょうか、、、?

 

検閲印見本イラスト?

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右ページ:スイス大使館に宛てた手紙の覚え書き?

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赤十字戦争捕虜関連の部署への手紙宛名見本?

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↓ 名古屋俘虜収容所人員増員表

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↓ 俘虜労役一覧表

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↓ 俘虜特殊技能調査票

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↓ 俘虜病類別新患統計表

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↓ 救恤金及寄贈金一覧表

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解放ニ際シテ一言ス 大正八年十二月二十四日

似島俘虜収容所長 菅沼大佐 (左ページ:日本語、右ページ:ドイツ語)

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他にも様々な書きこみがありました。

このノート以外に似島俘虜収容所の記録資料が一体どれだけ残っているのでしょうか!? 

 

次回はこのノートの書き手の方の「驚きのラベルコレクション:crown:」をご紹介させて頂きます。

どうぞお楽しみに!

byキョーコ


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サッカー部・声楽団・女装?:東京都世田谷区にて、1919~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所写真アルバムをお譲り頂きました。その3


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東京都世田谷区にて、1919~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所写真アルバムをお譲り頂きました。その3

その2に引き続きご紹介いたします。

 

↓ 左から、海軍経理秘書官ヒルピット、電気技師ワルデマー・アーペル(直筆サイン入り1920年)、歩兵卒リーバー、カール・ヂートリッヒと其の旅館

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↓ 二等水兵ケッテルリン、エルンスト・カイニング、井戸の部分(鉄筋コンクリート)

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↓ 青島独亜銀行副頭取オッファーマン、上海・青島・天津・芝宗ジータースプラムベック商会支配人カール・ローデ(直筆サイン入/その1にも登場)、ハッス中佐とチンメルマン少尉、漢米汽船会社青島支店長プリッツ・ニコライ

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↓ 上:サッカー部? 下:似島演芸!!

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↓ 似島演芸部 女装しています。そういえば、これまで女性がひとりも登場していません。。。DSC08626

 

↓ 似島声楽団!

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↓ 支那の佛寺

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↓ 左:雪だるま! 右:支那の佛寺DSC08630

 

↓ 四天王立像アップ 

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お腹部分の獅噛(しかみ)が大きくて立派です。

私はこの名称を知らなかったのですが、くまねこ堂の新人スタッフさん(スタッフ紹介にはまだ入っていないです)が「獅噛があるので四天王だと思います!」と教えてくれました。なんて頼もしい。うふ

 

↓ ニコリスク ウスリキー収容所(シベリア) 左からFischer、黒川中尉、前山通訳、Meszey

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右上の写真は石臼のようです。 

 

次回はこの写真アルバムといっしょに買い取りさせていただいた、収容所の関連資料をご紹介いたします。

どうぞお楽しみに!

byキョーコ


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海軍関係者の肖像:東京都世田谷区にて、1919~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所写真アルバムをお譲り頂きました。その2

 
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東京都世田谷区にて、1919~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所写真アルバムをお譲り頂きました。その2

前回の続きになります。

 

建築土木業者 カール・ペター葬儀

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砲艦イルチス号

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艦首の装飾がすごいです。

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 こちらは2冊目冒頭です。

ミュンゲル海軍少佐からの直筆のお手紙が貼り付けてありました。日付は1920年です。

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お手紙をめくるとハッス海軍中佐の写真も。

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↓ 左から同じくハッス海軍中佐、 独亜銀行青島支店長リットミュラー、チーフェン・パッフェル、青島高等学校講師オートマー博士(ご本人の直筆サイン入り)

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↓ 左から掌砲特務曹長デットマー、ステルン海軍中主計、アルテルト海軍大主計

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↓ 左からハッス海軍中佐、一人飛ばして南満鉄道技師パウル・リヒター

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次回につづく。

byキョーコ


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陸軍独語通訳者の手製アルバム:東京都世田谷区にて、1919~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所写真アルバムをお譲り頂きました。

 

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東京都世田谷区にて、1916~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所写真アルバムをお譲り頂きました。

陸軍のドイツ語通訳者の方による手製のアルバムで、俘虜となったドイツ人たちが収容所内でどのような待遇にあったか窺い知ることのできる大変貴重な資料です。

 

100年近く前のものになりますが、保存状態がよく、1枚1枚几帳面にメモが書き添えられていました。

 

 

 ジータス・プロムベック商会支配人 カール・ローデの読書室

 

 

 紅葉谷におけるチンメルマン少尉

 

上:ヒンナイ 下:ヘルマン

 

 1919年11月29日 宮島詣で

 

上:手紙の分配・・・階級によって異なりますが、俘虜一人当たり一ヶ月に3通の郵便を差し出すことが許されていたそうです。

 

 

チェスをするふたり

 

 

上:オーストリア人? 下:国民兵

 

 

 特志労働

 

 

大阪収容所に於けるクリスマス!1916年とあります。

 

私がイメージしていた収容所とは大分雰囲気が違います。

ハーグ条約により強制労働は禁止され、似島では朝夕の点呼と週一回の健康診断以外は、収容所内で自由に過ごしていたそうです。

 

そもそもドイツ人たちが収容された経緯は、、、

中国に進出していたドイツ帝国に対して、1914年日本軍が宣戦布告して中国に進駐。

陸海軍合わせて7万あまりの大軍を、中国山東半島の青島に派遣。

その際多くのドイツ人が日本軍の捕虜となり、日本に連れてこられたのでした。

 

日独戦争でのドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人等の俘虜は4697人で、日本各地のチンタオ・ドイツ人収容所に送られたようです。

広島市似島臨海少年自然の家のwebsiteを参考にさせていただきました)

 

次回につづきます。

どうぞお楽しみに!

byキョーコ

 


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拓博守衛長:東京都練馬区で、元陸軍少将のご家族から戦前の古写真をたくさんお譲り頂きました。6


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東京都練馬区にて、元陸軍少将のご家族から戦前の古い写真をたくさんお譲り頂きました。5

本日ご紹介するのは、拓博守衛長とタイトルの入ったアルバムです。

(拓博とは、国産振興・北海道拓殖博覧会の略称で、1931年07月12日(昭和6年)~1931年08月20日(昭和6年)開催。主催は北海道庁・札幌市役所・札幌市商工会議所でした。)

 

 

記念写真3枚以外は未使用の入場券が几帳面に貼られていました。

↓ 左上の券は福引の番号入りです。

 

たくさんの種類の入場券、招待券があったのですね。

 

乃村工藝社さんのページの博覧会資料の中にこの博覧会に関する詳細記事がありました。(さすが乃村工藝社さん!)

東京館はモダンな建物、京都館は金閣寺様式、金鯱のついた名古屋城を模した名古屋館、春日神社を模した奈良館、 他に樺太の特設館など異彩を放つ建物が並んだとのことです。

食堂などは数百種の施設建物があったそうです。スゴイですねえ!

不況時にも関わらず来場者は650,081人であったとか。 

暗くなっていく世相の中で、市民は娯楽として大いに楽しんだのではないでしょうか。

 

byキョーコ


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