大隈重信の書簡を紹介します~辛亥革命後の同仁会の対中医療事業および日本国内での活動

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 近代日本史に関わる書簡をお譲りいただくご機会がございました。その中からいくつか紹介していきます。

 今回紹介するのは、1913(大正2)年11月20日付の書簡です。1911年の辛亥革命後、日本が中華民国を国家承認したのが1913年10月のことですが、該当の書簡はその直後の時期ということになります。差出人は同仁会会長の大隈重信で、受取人は山梨県県議会議員、土橋静義(※)です。

(※)土橋の「橋」は本来は異体字ですが環境依存字のため「橋」と表紙しています。

大隈重信

 同仁会とは、1902(明治35)年に設立され、1945(昭和20)年の敗戦まで存続した、日本の医療団体です。大隈が同仁会の会長に就任したのは、1904年のことです。この団体については、朝鮮、満州(中国東北部)、中国での病院開設事業が知られています。

大隈重信

 このように、時期は辛亥革命後、そして差出人は同仁会会長ということで、つながりがみえてきました。おそらくこの書簡では、中国における医療事業が話題となっているはずです。差出人の大隈は、翌年には首相となり、第一次世界大戦への参戦や、中国の袁世凱政権に対する21か条要求といった外交政策を推進していきます。その直前の時期の大隈は、中国情勢についてどのように考えていたのでしょうか。この書簡は、その一端がうかがえるものとなっています。以下、その内容の要旨を記していきます。

大隈重信

 実際、大隈は時候のあいさつもそこそこに、「我帝国ノ国運ハ支那〔中国〕問題ニ存し居候」と切り出しています。これに続く文で大隈は、同仁会の事業について「国民一致ノ力ヲ以テ」取り組まなければならないと述べています。その理由は大隈によれば、同仁会の医療事業が「先般来〔辛亥〕革命後ノ形勢ニ鑑ミ支那ニ於ル欧米各国ノ仝〔同〕事業」との「競争発展ノ状況」となっているから、というわけです。そのため「本会ニ於テモ先以テ北京及漢口ニ列国ニ劣ラサル事業拡張ノ設計」を要し、「各方面ニ志士仁人ノ入会ニ相努メ」ていたのが、この時期の大隈の近況であったようです。そこで、大隈は山梨県の県議会である土橋に対し、同仁会山梨県支部の設立および土橋本人の同仁会入会を求めています。

大隈重信

 このように大隈は、辛亥革命後の中国において、日本と欧米列強との間の対中医療事業をめぐる競争が激しくなってきている、との認識を持っていました。またそうした情勢を受け、大隈は日本国内における同仁会の活動をより活性化させるため、山梨県にかぎらず、おそらく各地の県議会議員などに接触していたことがわかりました。この時期の大隈の動きは、彼が1914年に首相となり、日本が第一次世界大戦への参戦によって中国の青島におけるドイツ権益を占領し、同地のドイツ人経営の病院をも接収したことを考え合わせると、非常に興味深く思われました。そして上記の経緯が、対中医療事業に従事していた同仁会の活動においてどのような意味を持っていたのか、この点をより調べていきたいと思っています。いわば、軍隊と医療というトピックであるこの問題は、近代日本史において重要な意味を持っているはずで、なおかつ現在の日本および東アジアの問題を考える際の歴史の教訓をも含んでいるはずです。

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小野坂


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