昭和戦前期の日本内地・朝鮮・満州・中国の地図が入荷しました!~その2 陸軍第一師団の陸軍技師による1933年5月の満州視察記録と奉天軍閥・張作相邸の図面

 先日は、横浜市中区山手町での出張買取でした! ご依頼くださったのは大正時代からお住まいのお方で、オールドノリタケ、オールド香蘭社、錫の茶托、煎茶器、書道道具、鉄瓶、軍用品、軍装品、万年筆、掛け軸をお譲りいただきました! ありがとうございます!
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 さて、引き続き昭和戦前期の陸軍が作製した地図につきましてご紹介してまいりたいと思います。前回のブログでは、1931年9月の満州事変の勃発から、それが一応の収束を見た1933年5月末の過程でのある興味深い出来事を取り上げていくと予告いたしました。というのも、これら史資料が、陸軍第一師団所属の人物のご遺族の方よりお譲りいただいたものであり、そのご祖父様が、1933年に満州での業務に従事していたからです。今回はこうしたことにまつわる記録について記してまいります。

 まずは、歴史的背景を簡単に確認していきましょう。満州(現在の中国東北部)の奉天郊外において1931年9月18日、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破されました。このことを理由に当地に駐屯していた日本軍である関東軍が、鉄道の警備にとどまらず満州占領に向けて軍事行動を開始しました。これが満州事変の発端なのですが、実は当時から関東軍の自作自演が疑われていました。そのため事態の収束を模索する日本政府と軍事行動を強行する関東軍の綱引きで、満州占領よりは穏便と見られた、親日的な新国家の建設へと事態が進行していきます。この新国家が1932年3月1日に建国された満州国であり、日本政府は満州国を同年9月15日に承認しています。

 しかしながら、国際的には満州国建国の正当性は認められず、国際連盟でもこの件について審議されることになりました。ところが、外務省を始めとして日本政府は、自ら満州国を国家として承認している手前もあり、国際連盟とは妥協しない姿勢を見せました。結局、日本は1933年2月に国際連盟脱退を通告するにいたりました。

 しかし、日本の国際連盟脱退で満州問題はいったんの解決、とはなりませんでした。なぜなら、満州での「親日国家の成立」が、陸軍による他の親日国家建国の画策という新たな企てを生んでいったからです。今回ご紹介いたします記録や地図は、この新たな親日国家ないし親日政権設立のための陸軍の謀略と関係しています。

 この度お譲りいただきました史資料を残した陸軍第一師団所属の方は、1933年5月に満州を視察していました。今回ご紹介するのは、この時期の滞在記録と作製地図です。なお、彼は陸軍技師であったので、とりあえず〇〇技師と記しておきます。

 〇〇技師は、1933年5月21日に南満州の錦州に着いて、旧張作相邸を視察しています。まずは本人が残した滞在記録「満洲旅行記」を確認してみましょう。

原田家文書

 下記は、その中の5月21日の記録の一部書き起こしです。

「五月二十一日 快晴
五時ニ起床、今朝九時半山海関を出発スル迄ニ此ノ地ノ視察ヲ終ル目的デ、朝食ヲ早ク注文シテ置イタノニ、女中ガ中々起キテ来ナイ。…
午后一時半錦州着、錦州ホテルニ入ル。佐伯主計ノ案内デ市外六メートル程ノ地ニアル張作相氏ノ別邸ヲ見ル。非常ニ大規模ノ設計デ敷地ガ八万八千坪アルソウダ」

 

原田家文書 張作相邸

原田家文書 張作相邸

 上掲画像が錦州郊外の張作相邸の図面の一部になります。青焼きのため、とりあえず図面の表題をご覧ください。張作相とは、一時は北京も支配していた満州の軍閥の張作霖の義兄弟です。吉林省主席の任にあった張作相は満州事変に際して、東北辺防軍司令官代理に就任し錦州で指揮をとっていました。話は前後しますが、関東軍はここを爆撃したのです。この錦州爆撃(1931年10月8日)に際して、張作相は天津のイギリス租界に逃れたとされています。実はそのころ、日本陸軍は華北において、親日政権樹立に向けた策動の一環で張作相を擁立しようとしていました。ただ、この張作相に対する工作を含む陸軍の策動は不発に終わり、結局は1933年5月末の塘沽停戦協定で満州事変はひとまず収束したこととされました。こうしたは陸軍の史料からうかがえます。この点については下記論文を参照しました(※)。

※古屋哲夫「『満州事変』以後の対中国政策」『人文学報』第47号(1979年3月)
https://furuyatetuo.com/bunken/b/48_manshujihen.html

 〇〇技師の仕事が、陸軍による満州や華北での親日国家建設の謀略とどれほど関連があったかは、今のところ定かではありません。ただ、そもそも軍事行動の遂行にあたって地図を作製する陸軍技師の存在やその業務は、これまでの研究でも知られていないことが多いのです。図面とともに滞在記録も含むかたちで、〇〇技師が史資料を残されたことは、非常に貴重なことなのではないかと考えます。

 以降のブログでは、満州国の都市や、戦場となった中国の地形図などをご紹介しつつ、満州事変後の日本軍の動きや当時の国際関係などにふれながら、今回お譲りいただきました史資料の重要性を可能な限りお伝えしてまいります。

 重ねてになりますが、本ブログでは、ひとまず史料の出所の詳細は公開しないとの判断をいたしました。詳細につきましては、お電話またはメールフォーム、LINEにて、お気軽にお問い合わせ下さいませ。可能な限りお答えしてまいりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

小野坂


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