陸軍独語通訳者の手製アルバム:東京都世田谷区にて、1919~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所写真アルバムをお譲り頂きました。
東京都世田谷区にて、1916~1920年頃の似島のドイツ人俘虜収容所写真アルバムをお譲り頂きました。
陸軍のドイツ語通訳者の方による手製のアルバムで、俘虜となったドイツ人たちが収容所内でどのような待遇にあったか窺い知ることのできる大変貴重な資料です。
100年近く前のものになりますが、保存状態がよく、1枚1枚几帳面にメモが書き添えられていました。
ジータス・プロムベック商会支配人 カール・ローデの読書室
紅葉谷におけるチンメルマン少尉
上:ヒンナイ 下:ヘルマン
1919年11月29日 宮島詣で
上:手紙の分配・・・階級によって異なりますが、俘虜一人当たり一ヶ月に3通の郵便を差し出すことが許されていたそうです。
チェスをするふたり
上:オーストリア人? 下:国民兵
特志労働
大阪収容所に於けるクリスマス!1916年とあります。
私がイメージしていた収容所とは大分雰囲気が違います。
ハーグ条約により強制労働は禁止され、似島では朝夕の点呼と週一回の健康診断以外は、収容所内で自由に過ごしていたそうです。
そもそもドイツ人たちが収容された経緯は、、、
中国に進出していたドイツ帝国に対して、1914年日本軍が宣戦布告して中国に進駐。
陸海軍合わせて7万あまりの大軍を、中国山東半島の青島に派遣。
その際多くのドイツ人が日本軍の捕虜となり、日本に連れてこられたのでした。
日独戦争でのドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人等の俘虜は4697人で、日本各地のチンタオ・ドイツ人収容所に送られたようです。
(広島市似島臨海少年自然の家のwebsiteを参考にさせていただきました)
次回につづきます。
どうぞお楽しみに!
byキョーコ