買取事例
「中国文物局」による「文化財海外持ち出し審査基準」についての考証~第3話!
本日も引き継きまして、くまねこ堂流に「中華人民共和国文物保護法」「中華人民共和国文物保護法実施条例」に基づいた「文化財海外持ち出し審査基準」について記していきたいと思います!
今回は「9、輿、服」について取り上げてみたいと思います!
日本では重要文化財級の骨董品が海外持ち出し禁止のラインになっておりますが、中国では庶民の生活用品までこと細かく分類がなされており、さすがは歴史大国・中国!
9.輿・服 | ||||
9.1車・船・輿・駕籠 | 部品を含む | 1911年以前のものは持出禁止 | ||
9.2車の道具、馬車の道具 | 部品を含む | 1911年以前のものは持出禁止 | ||
9.3靴・帽子 | 1911年以前のものは持出禁止 | |||
9.4衣服 | 1911年以前のものは持出禁止 | |||
9.5首飾り | 1911年以前のものは持出禁止 | |||
9.6装身具 | 1911年以前のものは持出禁止 |
「輿(こし)」という言葉はなかなか聞きなれませんが、移動手段のひとつであり、日本流にいうならば「駕籠」ですが…そのような質素なものではなく「お神輿」といえばどんなものか想像がつきやすいかと思います。
中国の輿(※Wikipédiaより)
輿にも世界各国たくさんの種類があるそうで、庶民のなかの手軽に利用のができる簡素な輿から王族などが使用する豪華絢爛なものまで…
当時の輿に関する写真をみてみますと、なんとも優雅でのどかですね!
現在日本で輿に乗る機会はそうそうなく、相当昔に廃れてしまった乗り物なので「1911年以前」と言われてもピンときませんが、なんと中国、インド、ミャンマーなどの一部の地域ではいまだに存在するそうです!
文物局では、輿の本体のみならず部品や、自動車、馬車、船なども持ち出し禁止項目に挙げおり、現役の移動手段だからこそ、より一層貴重な生活資料として取り扱いが行われていると思われます。
そして生活資料として、やはり欠かすことができないのが同じく分類されている「服」ですね。
この在中国日本大使館の表を見る限りでは「民族衣装」が別に存在するので、「9類」に分類されている「服」とは庶民の生活用品としての何の変哲もない「服」と推測が出来ます。
日本でも同じ事が言えますが特別な時にしか着用しない「民族衣装」は大切に保存されていることが多いのですが(軍服、大礼服然り)、1911年以前とはいわずとも昭和戦前時代の普段着の洋服、和服というものの現存数ですらかなり低く、さらに虫食いなどがなく状態が良好なものといったら珍品の部類に入るのではないでしょうか。
上図は「旗袍」を身にまとう清時代(1644-1911)の女性たちですが、「旗袍」とはチャイナドレスのことを指すそうで、かつて日本では「支那服」と呼んでおりました。またチャイナドレスという言葉は和製英語で(!)、海外では「 Mandarin dress マンダリンドレス」と言うそうです。
着物にも銘仙、絽、錦紗、紬などの種類があるように、旗袍にも身分や状況に応じて生地や柄が区別されていたと思われますし、写真が珍しい時代の被写体になった人々は盛装して撮影にのぞんだことでしょう。
以上を踏まえると、庶民の旗袍はもっと質素なものだったと推測が出来ます。
上図を見る限りでは現在私たちが想像するようなチャイナドレスとはイメージが異なる感じがいたしますが、実は現在にも通じる下図(李香蘭)のようなチャイナドレスは1920年代に世界的に巻き起こったモダニズム旋風によって、道徳的な部分で肌の露出をすることが許される風潮になったことで可能になった型であります。
日本のモガは洋服を着用することでモダニズムを体現した訳ですが、中国モガは従来の普段着の型を変えて独自のモダニズム時代を築いていきました。
従って1920年代以降に生まれた、肌の露出のあるチャイナドレスは中国文物局の海外持ち出し基準からは外れるということになりますが、法令の改訂が行われれば、これらの型のチャイナドレスも今後は持出禁止になる可能性が大いにある訳ですね。
また文物局の海外持ち出し禁止項目には「服」ばかりではなく、帽子、靴、装飾品なども挙げられておりますので、中国独特の習慣であった纏足靴などもその対象になると思われます。
…というわけで、本日は9類の輿・服について取り上げさせていただきました!
こばちゃん
「中華人民共和国文物保護法」「中華人民共和国文物保護法実施条例」に基づく「海外持ち出し禁止の骨董品」について…第二弾!!
先日より書かせていただいております、「中国文物局」における「輸出禁止骨董品」についてですが、第二弾の今回は「演劇・演芸用品」
について執筆させていただきたいと思います!
国営の文化財保護機関である「中国文物局」では、「中華人民共和国文物保護法」のもと海外輸出する骨董品の鑑定を行い、規定外の骨
董品のみが国外持ち出し可能品となる…ということは以前のブログで紹介させていただきました!
鑑定の対象となる骨董は大きく16種類に分類されており、そこから更に細かく分類されて、それぞれの規約のもとに鑑定が行われる、とい
う流れになっております。
中国の骨董品といえば書画、陶磁器などを思い浮かべますが、「意外だな」と思われるものも含まれており、特に「レコード」の記載が
あったのには驚いてしまいました。(下図・在中国日本大使館HPより)
13.演劇・演芸用品 | ||||
衣装、影絵、木偶及び各種演劇・演芸と関係のある道具を含む | 1911年以前のものは持出禁止 | |||
レコード | 1949年以前のものは持出禁止 |
まず中国の演劇・演芸といえば、やはり「京劇」が第一に挙げられることと思います。
京劇とは、1800年代に誕生したとされる歴史の浅い中国の伝統的な古典演劇のひとつで、きらびやかな女形の衣装や舞台化粧が印象的
ですね!
その京劇の代表的人物といえば、映画「花の生涯」のモデルとなった梅蘭芳(メイ・ランファン 1894-1961)を思い浮かべる方が
多いことと思います。
梅蘭芳は1924年(大正13)に日本にも来日しており、前年の関東大震災で被害を受けた人々のために慈善興行(現在のチャリティー)
を行ったことで、多くの日本人にも親しまれました。
来日した際の梅蘭芳。写真左(写真 Wikipediaより)
大正時代から各国芸術家を招聘することが一つの流行ーなっていたらしく、舞踊のパブロアやヴァイオリニストのブルメスタ
などが来日し、当時の日本人たちを熱狂させ、演劇や音楽関係の来日芸術家たちの多くが日本でのレコード録音を残しており、
梅蘭芳も日本蓄音器商会(現・日本コロムビア)でレコードが発売されました。
実は1949年以前に発売された中国のレコードは、意外にも日本に沢山残されているのですが、その理由としては戦前に中国在
住だった職業軍人の方が、戦況が悪化する以前に日本に引き上げた荷物のなかに入っていた、また一般人の海外旅行が夢の
また夢だった時代に唯一身近だったといえる上海や満州旅行のお土産として持ちこんだもの、そして「中華人民共和国文物
保護法」「中華人民共和国文物保護法実施条例」が施行される前に日本国内に持ち込まれたものが殆どと言えるのではないでし
ょうか。
また中国および満洲、日本でも絶大な人気を誇ったレコード歌手といえば李香蘭(1920-2014)を忘れることができません。
日本人にも関わらず満州人と偽って活動し、その数奇な生涯はミュージカルやテレビドラマなどでも取り上げられ、後年まで
TVタレントや国会議員として活躍されているので、ご存知の方も多いかと思います。
一世を風靡した映画「支那の夜」の新聞広告(Wikipediaより)
李香蘭は日本ではコロムビアレコードの専属として多くのレコードを録音し、「蘇州の夜」「紅い睡蓮」などのヒットを
飛ばしておりますが、中国でも上海パテ(百代)や百樂(パイルー)などのレーベルで録音を行い、代表曲である
「夜来香」「売糖歌」などが1930年代後半から1944年にかけて発売されております。
1930~40年代、中国の代表的な歌手たち。左から姚莉、周璇、李香蘭、白光、鶯音。
(写真 Wikipediaより)
当然のことながら、当時の中国にも多くの歌手がおられますが、そのなかでも名曲「何日君再来」を歌った周璇(1918-1957)
や、日本でも多くのレコードを録音した中国の歌う映画女優・白光(1921-1999)は、当時の時局を反映した印象的な一曲である
「日満支親善歌 興亜三人娘」を奥山彩子、李香蘭と共に録音しています。
1940年頃は日本でも「中国歌謡」ブームだったことから、この当時に新譜として持ち込まれた本国・中国のレコードがたくさん
あったとも推測ができますね!
※ちなみに中国でしか発売されていない日本人歌手のレコードもあるそうですが、日本人に関するものは第二次世界大戦後に
廃棄されたということを耳にしたことがあります
中国文物局(在中国日本大使館)の記載によれば「1949年以前のものが持ち出し禁止」なので、梅蘭芳の古い録音や李香蘭、
周璇、白光などの現地発売のレコードは、例え現地の古物商で発見し買い求めても、日本に持ち帰ることはできないという
ことになりますね。
…中国で施行されている「中華人民共和国文物保護法」「中華人民共和国文物保護法実施条例」に基いた「文化財海外持ち出し
審査基準」について、くまねこ堂流にランダムで掘り下げております!!
また引き続き次回も、興味深い項目をピックアップしてご紹介して参りたいと思います!
こばちゃん
サントリー/寿屋 「洋酒天国」創刊号~50巻までをお譲りいただきました
サントリーもとい旧名「寿屋」が1956年から7年間発行した広報誌「洋酒天国」をお譲りいただきました。
企業が社外読者を対象に発行する広報誌はメディアとして優れた特性を持ち ながら,現在,企業コミュニケーションの多様化,インターネット・e メールの普及などの情報社会化などを背景に廃刊されるケースが少なくないなかで、ここまで長続き、かつ発行部数を稼いだ広報誌もなかなかないんじゃないでしょうか。
広報誌、といっても洋酒天国はどちらかと言えばプレイ雑誌に近く、企業PRはせず骨董品や香水の話、女の話なんかを織り交ぜた広報誌だったそうです。
1949年から酒の自由販売がはじまったなかで、その7年後にこういった広報誌をだすということは要するに「ウイスキー」という洋酒が一般に普及し始め、バーに行っては気取りながらお酒をたしなむ人が多かったんじゃないでしょうか。
今でさえ女の人がメインの居酒屋などが増えましたが
やはりバーに行くと、あのくらい照明や、流れる音楽がどことなくスノビッシュな雰囲気をだしていて
たぶんどの時代にもお酒を挟む社交の場というのは少し鼻につくあの感じがまた良い!って感じなんでしょうねw
くまねこ堂ではお酒(古酒)の買い取りも行っております!
ヨシダ
「中国文物局の蝋印入り骨董品」と「中華人民共和国文物保護法」「中華人民共和国文物保護法実施条例」について~第一弾!
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秋も深まり、朝夕は涼しい季節になってきましたね!
以前ご紹介させていただきました「中国文物局の蝋印入り骨董品」についての記事ですが、
思いのほかのご反響をいただいておりまして、誠にありがとうございます!
※我々が日ごろよく口にする「骨董」という言葉、中国では「文物」と表記されます。
中国では骨董品の国外輸出についての規定がもうけられていること等を書かせていただきましたが、
改めまして…まず、いつから持ち出し制限がかかったのかと申しますと(当ブログ9月4日、掲載より)
『そもそも1960年に施行された「文化財輸出鑑定参考基準」から輸出制限が開始さ れ、現在では旧
法令は廃止されておりますが、2007年に公布された「中華人民共 和国文物保護法」「中華人民共和
国文物保護法実施条例」に基づいて制定された 「文化財の海外持ち出し審査基準」によって、中国の
骨董品は現在も国家から守られております。』
1960年に施行された「文化財輸出鑑定参考基準」では、1795年(清代乾隆帝)以前の骨董品・美術品
などが対象になっていたそうですが、2007年に公布された「中華人民共 和国文物保護法」「中華人民
共和国文物保護法実施条例」に基づいて制定された 「文化財の海外持ち出し審査基準」では、急激に
時代が下って、分類によって「一律持ち出し禁止」のものから「1911年以前のものは持出禁止」「19
49年以前のものは持出禁止」「1966年以前のものは持出禁止」などと年代が細かく選別されたうえ、
規準がかなり厳しくなってしまいました。
それから、どのように鑑定が行われるかといいますと、まず中国文物局に集められた骨董品は、
文物局内に設置されている文物鑑定セン ターの専門家によって鑑定がなされ、規定から外れた骨董品
のみが「文物局鑑定証明書」「文物局公認の鑑定印」(蝋印)を押印されて、市場に流出する、という
流れになっております。
もちろん、海外への貴重な骨董品の流出防止策を立てているのは中国ばかりではありません!!
実は日本にも「文化財保護法及び関係法令」が設けられており、これは国内での文化財保護のためのみ
ならず、重要文化財クラスの骨董および美術品の海外流出を防ぐためにも重要な役割を果たしており、
文化庁ホームページでは、
『円滑な通関検査に資するとともに,貴重な国民の財産である文化財が誤って海外に流出することを防
ぐため,古美術品を海外に輸出しようとする際には,当該輸出品目が国宝・重要文化財に指定されてお
らず,重要美術品等認定物件にも該当しないことの証明を,税関に対し提出する取扱いとなっております』
と『古美術品輸出鑑査証明書』の発行を推奨しております。
これらを踏まえて…
本日から複数回に分けまして在中国日本大使館のHP内にある
【「文化財海外持ち出し審査基準」に関する通知(仮訳)】をもとにして、くまねこ堂流に記事を
掘り下げていきたいと思います。
まず第一回目は中国文物「書画」について書き進めていきたいと思います!
書画については以下のように分類がなされ、規定が定められております(在中国日本大使館HPより)
3.絵画、書法 | |||
3.1中国画及び書法 | 1911年以前のものは持出禁止 1911年より後のものは人名表を参照して執行 |
||
肖像、映像、画像、風俗画、戦功図、紀事図、行楽図等 | 1949年以前のものは持出禁止 本人またはその親族に属する肖像、映像、画像等はこの限りではない |
||
3.2油絵、水彩画、ガッシュ | デッサン(スケッチを含む)、マンガ、版画の原作と原版等を含む | 1949年以前のものは持出禁止 1949年以前のものは人名表を参照して執行 |
|
重大な歴史的、芸術的価値を有し、広範な社会的影響を伴うもの | 一律持出禁止 | ||
3.3壁画 | 宮殿、廟宇、石窟、古墳中の壁画等 | 1949年以前のものは持出禁止 | |
近現代の著名な壁画の原稿、設計案及び設計図 | 一律持出禁止 |
書画以外にも多くの文物鑑定の規定が「1911年」と「1949年」に置かれているのですが、1911年は辛亥
革命によって中華民国が建国した年、1949年中国大革命によって中華人民共和国が建国した年というこ
とに由来していると推測ができます。
文物局には鑑定の際に基本となる人名表が存在するそうですが、残念ながらHPなどでは公表はされて
おりません。
100年前に既に「四億の民がいる」と歌にまで唄われているだけあって、なにしろ中国の代表的書家の
多さときたら大変なものなので、清から中華人民共和国の時代に活躍したほんの一部、それも独断と
偏見、順不同での名前のご紹介となりますこと、ご了承くださいませ。
金農(1687-1763)、何紹基(1799-1873)、呉昌碩(1844-1927)、康有為(1858-1927)
于右任(1879-1964)、王雪濤(1903-1982)、賀天健(1891-1977)、黄君壁(1899-1991)
魏紫煕(1915-2002)、啓功(1912-2005)、黄冑(1925-1997)、黄賓虹(1865-1955)
呉湖帆(1894-1968)、劉海粟(1896―1994)、謝稚柳(1910-1997)、李苦禅(1899-1983)
などなど。。。
いずれも人気の高い書家、画家になりますが、王雪濤は中国美術家協会の理事長、黄冑は同協会の
常務理事をされた方で、また政治家の傍ら書家として名を成した方には于右任、康有為のほか、
毛沢東も中国の代表的な書家として数えられております。
これらの方々が文物局の鑑定人名表のなかに登録されていると推測ができますが、恐らくこちらも
人物によって「一律持出禁止」「物によって」などの規定が定められていることと思われます。
いずれにせよ骨董の世界は奥深いですね~
また後日、中国文物について第二弾を掲載させていただきたいと思います!!!
こばちゃん
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戦前の紙モノ資料のご紹介です。【東京朝日新聞/東朝 歴史資料】
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★
ありがとうございました(*^-^*)!
本日も、お譲りいただいた戦前の紙モノ資料をご紹介させていただきます!
こちらは「東京朝日新聞」の郵便はがき。左は「新聞のできるまで(Ⅲ)」、右は「東朝社管轄の重なる通信販売網図」と題されています。
『東京朝日新聞(東朝)』は、いまの『朝日新聞』の東地区における旧題で、1940年に西地区の『大阪朝日新聞』と統合され、現在の名前に改題されました。
朝日新聞といえば、2014年に慰安婦強制連行に関する記事の一部を捏造と認め、謝罪・訂正したことが大きな話題となりました。深刻な国際問題に発展してしまった事案であるだけに、検証不十分な記事が掲載され、長らく訂正されずに放置されたことは残念でなりません。
(参考「記事を訂正、おわびしご説明します 朝日新聞社 慰安婦報道、第三者委報告書http://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122337.html)
こちらの絵葉書裏面には、以下のような文言が印字されていました。
朝日新聞は、自らが誇る「最も健実な」(ママ)読者層が離れないように努めてほしいと願います。
メディアが多様化した今日においても、いまだ新聞の影響力は絶大です。
いずれの新聞社も、私たち一般市民が社会を正しく知ることができるよう、誠実な報道姿勢を貫いてほしいと思います。
貴重な歴史資料をお譲りいただきありがとうございました!
Byクラニャン
さいたま市大宮区にて、土門拳・写真集、ミュシャの複製ポスター、銅製の薬缶、CD、象牙の彫像をお譲りいただきました。
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★★
お譲りいただきましてありがとうございます!
これまで続けて戦前の英語教材をご紹介してきましたが、『村井・メドレー ザ・ニュー・アート 英作文詳解』が発行された翌年1937年には盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発します。
その後中国に肩入れしたイギリスやアメリカとも対立が深まり、1940年(昭和15年)に入ると英語は「敵性語」として排斥されるようになりました。野球のストライクが「よし、一本」、サイダーが「噴出水」、パーマが「電髪」などと言い換えられたこともよく知られていますね。
Wikipédiaで紹介されている『写真週報』には「看板から米英色を抹殺しよう」と書かれており、この時期にはとても英語学習どころではなかったと思います。
この度お譲りいただいた語学教材も、当時見つかってしまえば持ち主の方は「非国民」のレッテルを貼られ、大変なことになったのではないでしょうか。そんな時代をくぐりぬけ、今に伝わった貴重な資料。
くまねこ堂にお譲りいただきありがとうございました
大切に取り扱わせていただきます!
By クラニャン
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★東京都杉並区★松庵にて歴史書、図鑑、掛け軸、腕時計(オメガ等)、お酒(ジャックダニエル等のウイスキー類)、アクセサリー、銀杯、ワイングラス(カガミクリスタル)、江戸切子、ミニカー、キャンディキャンディ・水森亜土・サンリオ等のキャラクターグッズ、古本、古道具をお譲りいただきました!
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★★
ご用命くださいましてありがとうございます(*’ω’*)!
本日も戦前の絵葉書をご紹介致します♪
こちらも先日ご紹介した雑誌『少年倶樂部』付録の絵葉書です
今回お譲りいただいた絵葉書を裏面の印字によって分類すると、飯塚羚兒、伊藤幾久造、村上松次郎、松添健、鈴木御水、田代光という6名の作家が描いたものに分けることができました。
お写真を載せた9枚はすべて、そのうちもっとも枚数の多かった作家、飯塚羚兒(1904-2004)氏によるものです。
「伊豆新聞」(平成28年5月8日発行)の記事によると、飯塚氏は戦前より挿絵画家として活躍したのち、1955年に51歳で海洋画家に転身、以降は木版画なども精力的に手がけたそう。同氏の作品は神奈川県大和市の画廊「花の画房」の運営する「飯塚羚児資料室」で扱われたのち、昨2016年、主要作品の大半が国立昭和館(東京・九段)と玉泉寺(伊豆・下田)へ寄贈されています。(参考 http://www.geocities.jp/kamosuzu/iidukareijiten.html)
1972年のこちらの木版画では、もはや軍艦ではなく帆船をモチーフにしていますね。
飯塚氏は戦中、海軍省の職を辞して灯台職員の慰問や物資の調達・配給を行い、晩年には海事・海軍関係の慰霊活動も行っていたそうですが、同氏の戦争観や平和に対する想いはどのようなものだったのでしょうか。
今後も引き続き、海軍を描いた少年雑誌の付録をご紹介したいと思います!
By クラニャン
古時計、帯留め、サーベルの柄などの古道具を買い取りました。中野区にて。
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本日ご紹介させていただくのは昭和10年に発売された「満洲國皇帝陛下 御来訪記念」絵はがきです!
皆さん満洲(満州)といえば、なにを思い浮かべるでしょうか?
男装の麗人・川島芳子、李香蘭、第二次世界大戦、大陸の花嫁などなど…それぞれの視点や歴史、思いが
交錯する幻の国・満洲。
満洲国は1932年(昭和7)年に中国北東部に誕生した国で、皇帝となったのがかの有名な愛新覚羅溥儀、
のちに映画「ラスト・エンペラー」の主人公となる人物です。
満洲の首都は新京ですが、大連、奉天、満洲里(まんちゅり)、そして哈爾濱(ハルピン)などなど…
戦前の日本人からすると最も近い外国であり、ブルースの女王・淡谷のり子先生が「満洲ブルース」という
流行歌を歌っているほど!
どこか憧れさえ抱かせる都だったのです。
そんな異国情緒を感じさせる憧れの都の皇帝が来訪するとなると、当時の日本が大騒ぎにならない筈はあり
ません。
時は昭和10年、モダン都市文化の花盛り、戦争の影なんか見てとれない束の間の平和時代のこと。
絵はがきの中には当時の東京市(現在の東京23区を東京市と称しました)が発行した、電車乗車券が同封
されておりました!
一枚には自動車乗車券(上)とありますが、タクシーの乗車券なのでしょうか…?
↓こちらが満洲国の国旗で、国花は蘭の花、「蘭花御紋徽」が使用されておりました。
今年は満洲国建国85年。
くまねこ堂では満洲(満州)ほか、中国、朝鮮関係の資料、陶器、掛軸、書、絵画などの美術品を積極買取
させていただいております。
こばちゃん
★”遺品買い取り(遺品整理)のご依頼でした。” ★古書・古本 広辞苑第六版 切手、年賀ハガキ、ハガキ ネクタイピン、アクセサリー レコード
今回お譲りいただきました中には、江戸時代の福岡藩士から八幡製鉄所を設立し、貴族院男爵議員となった安川敬一郎(1849-1934)の書簡がございました!
書簡といいましても、ご覧の通りに表装された巻物になっており、いかに大切に保管されて来たのか伺い知ることができます。
安川敬一郎氏の簡単な経歴を辿ると、嘉永2年に筑前国(現在の福岡県)に誕生し、江戸末期に福岡藩の教員となったものの、明治5年に上京し慶應義塾に入学したが、身内の不幸のために帰郷。
しかし故郷・福岡で炭鉱事業を立ち上げたことにより莫大な富を得、明治14年には頭山満の玄洋社に参加し、その安川氏の資金が玄洋社を支えていたんだとか。
その後、なんと孫文を神戸から東京に迎えて、4年もの間、毎月500円の生活費を提供していたそうです!!!
安川敬一郎氏がいなければ「中国革命の父・孫文」もここまで大成しなかったのではないか…と思うと感慨深い書簡になります。
それにしても明治中期の500円といえば、現在に換算するとン千万になるでしょうから、中華民国のかげの立役者と言っても過言ではないでしょう。
この書簡は大正14年に知人へ宛てた近況報告ですが、なかり長い内容の手紙を読み進めてみると、普通選挙についての記述が出てくるので、恐らく大正14年に安川氏が貴族院議員として立候補した周辺の時期に差し出されたものと思われ、封筒と中身が合致していることがわかります。
「乱筆御免」からはじまる書面からは几帳面な性格や、大物こその相手に対する気配りや常識を兼ね備えていた人物だったことが伝わってきます。
歴史上の人物はやっぱり違うな!と思わせる貴重なお品でございました。
ありがとうございました!
くまねこ堂では、歴史上の人物や政治家による真筆揮毫(書画、掛軸、色紙、短冊、書簡、原稿)などのお品も高価買取をさせていただいております!!
こばちゃん
★千葉市中央区、流山市にお伺いしました 松戸市、流山市にもお伺いいたします!
やっと秋らしくなってまいりました!
相変わらず、くまねこ堂では多くのお客様から色々なお品をお譲りいただき、新規のお客様、リピーター様、誠にありがとうございます!
私達スタッフはいつも面白い品々に囲まれてお仕事をさせていただいておりますが、今回買い取りさせていただきました商品の中に、大正後期から昭和30年頃までの少年犯罪関係の資料をまとめたスクラップ帖がございました!!
特に昭和初期の記事が中心なのですが、これらの記事をみると「浅草」「モボ・モガ」のキーワードがやけに多く使用されております。
昭和レトロブームでモボ・モガ(モダンボーイ、モダンガール)が持て囃されて、お洒落で先端的な存在というイメージが強いところですが、実は「不良」として見られていたことが伺いしれます。
そんなモボが女性に声をかける際の手口が当時の新聞に掲載されておりました…
「握り、さわり」「語り」「送り」「つけ文」「打込み」「すみません」「ありがとう、おちます」「おたずね」…
と項目が振るっています(笑)
いまから90年ほど前の記事なので古く感じますが、実は現在の男性の手口とそんなに変化がないように思われますが如何でしょうか?
また今や世界中から多くの観光客が集結する浅草も、実は不良少年たちの巣窟だったんですね…
この周辺のことは、川端康成の小説「浅草紅團」(前進社 1930年)に詳しく描き出されています。
そんな昼間の浅草をゆく少年たちに「なぜ浅草にいるのか?」という質問の返答もなかなかなものです。
「なんとなく遊びに来た」「遅刻したから」「月謝を使い込んだから」…
なんか今の少年たちも、こんな言い訳をしそうです(笑)
そしてそして…戦後の記事で最も目立つのは、やはり「ヒロポン」です!!
ヒロポンは戦時中に日本で製造された覚せい剤で、終戦直後に軍の放出品として日本に氾濫したということですが、なにしろ昭和20年代まで薬局に「ヒロポンあります」の貼り紙があったということで…戦後の混乱期は想像できないほど凄い時代だったんですね~
特に芸能界でのヒロポン蔓延はものすごく、吉本専属の漫才師ミス・ワカナはヒロポン中毒で死亡し、漫談家のM・Yや、歌手のH・О、N・Kなどもヒロポンに蝕まれてていたそうです。
しかし昭和20年代後半頃からヒロポン廃絶運動が高まり、非合法の覚せい剤として認知されるようになります。
このスクラップブックには↓のようなビラも貼付されておりました。
学校で習ったり、テレビなどで放送される歴史はどうしても表面のきれいな部分でしかありませんが、このような民衆がたどった裏面史もなかなか面白いものですね!
くまねこ堂では美術品ばかりではなく、江戸、明治、大正、昭和の紙モノ資料も買取させていただいてります!