買取事例
神奈川県鎌倉市にて、中国の古い塗漆ものの唐筆をお譲り頂きました
神奈川県鎌倉市にて、中国の古い塗漆ものの唐筆をお譲り頂きました。
木箱入りになります。
くまきちさん曰く、「そこまで古いものではないですよ!」とのことでした。
年代は不明ですが、かなり年季が入っているように見えます。
唐筆は高級なものになると螺鈿や象嵌が繊細に施されています。
こちらは塗漆(としつ)ものでして、1周5.5センチほどですが、手描きの絵柄はうまい具合にぐるりとつながっています。
山を背景に横笛を奏でる人、見物する人などが描かれており、なかなか風流です。
線描の縁は光沢があり、金のように見えます。
また、キャップの先と筆尻にはそれぞれ福・壽と入っています。
御目出度いお品だったのでしょうか。
さて、 見た目は良く似ている唐筆と和筆は具体的にどう違うのでしょう。
和筆は、余分な毛や逆毛を取り除いて筆先を整えてから束になっている根元を強く締めるので、後々の毛の抜けが少ないそうですが、唐筆は筆先をのりで固めてから最終工程で余分な毛などを取り去って筆先を整え松脂で根元を固めるため、おろしたての筆先は引っ張れば毛が抜けてしまうのだそうです。そのため、使用法としては、軸の方を捌かずに墨をしっかりつけて固めるのだそうです。
くまねこ堂では筆と同時に古い硯も時折入荷します。
次回はその中から数点を順にご紹介させて頂きます。 
byキョーコ
余談 マツコの部屋 頭突き記念日
野良5年保護施設9ヶ月のマツコが家に来てもうすぐ3ヶ月です。
この間いろいろなことがありました。
マツコは大きな身体に似合わずとてもシャイな性格です。
来てすぐの頃はケージにひきこもっていましたが、まもなく私に頭突きをしてくれるようになりました。(頭突き=甘え・愛情表現など)
それから遅れること1ヶ月、夫にも頭突きを。その時の夫の喜びようったら、、、
その数日後、羽毛布団にも。
夫と羽毛布団の順番が逆でなくてヨカッタ、、、と心の中で思ったのでした。![]()
byキョーコ
東京都文京区で、古い錫製品 紫銅色雪輪形の茶托をお譲り頂きました
東京都文京区で、古い錫製品 紫銅色雪輪形の茶托をお譲り頂きました。
一箱に5枚ずつの計10枚揃いです。
チラリ。裏側のプロポーションもなかなか良いです。 
雪輪形とは、6角形の雪の結晶を図案化した文様で、縁の6か所に小さな丸模様が入っています。
煎茶器以外にも皿や鉢などにはこの文様がたくさん見られるかと思います。
雪は豊作の前兆/吉兆であったそうなので、とても縁起の良い柄なのでしょう。
この茶托、明るい色の机に置きますと、丸く開いた穴の部分が際立ってステキです。
木箱でなく紙箱だったのですが、角にはヤブレ止めに金具がつけられているお陰で、いずれにもヤブレはありませんでした。ちょっとしたことですが細部まで気が行き届いていて粋だなと思いました。
byキョーコ
東京都杉並区で、古い黄銅のいぶし銀茶壺/茶入れをお譲り頂きました
東京都杉並区で、古い黄銅のいぶし銀茶壺/茶入れをお譲り頂きました。
打出丸鎚目文で、 底には、「いぶし銀 黄銅 銀川堂」と彫られています。
経年により黒く変色していますが、ふたの内側に光沢が残り当時の面影が、、、
黄銅( 真鍮 )は金色の光沢をもつことから、金の代用品として仏具や金管楽器、工業用品などにも使われてきました。鋳造・加工が容易なのだそうです。
この茶壺はいぶし銀とも銘が入っていますから、外側がいぶし銀の落ち着いた仕上げに対し、内側に黄銅の金の光沢が入り、色彩のコントラストが見られたのかなと想像します。
そして、茶壺と言えば、、、子どもの頃に「ずいずいずっころばし~茶壺に追われてドッピンシャン」なんて意味も分からず歌っていませんでしたか?この歌詞には以下のような由来があるのだそうです。
「江戸時代、現在の京都府宇治市の名産品である宇治茶を徳川将軍家に献上するための茶を詰めた茶壺を運ぶ行列が行われ、東海道や中山道の街道筋では「茶壺道中」と呼ばれた。幕末まで続いたこの行事は、江戸時代中期に徳川吉宗の倹約令が出るまでは行列の規模が年々ふくれあがり、その数は一時は数百人から数千人にも達したという。田舎の大名行列を凌ぐ茶壺の行列の様子は、現代でも童歌のずいずいずっころばしで歌い継がれている。」(Wiki)
由来については諸説あるようですが、茶壺道中なるものがあったのは事実。
今では考えられませんね!
byキョーコ
神奈川県横浜市にて、中国磁器 景徳鎮の花器(壺)をお譲り頂きました
神奈川県横浜市にて、中国磁器 景徳鎮の花器(壺)をお譲り頂きました。
くまきちさん曰く、出来はマアマアかなぁとのことです。高さは31センチほど。
景徳鎮は中国の有名な陶磁器です。
歴史は古く、唐代に昌南鎮窯として始まり、北宋の景徳年間(1004-1007年)に 官窯(中国宮廷直属の陶磁窯) となり景徳鎮窯と改称。底に景徳と紀款を入れた為、その後景徳鎮と呼ばれるようになりました。
官窯では宮廷に納品するために数多く焼かれましたが、厳しい品質チェックがあり、規格にそぐわないものは流出しないよう、その場で全て割られてしまったそうです。
そんな高品質の景徳鎮は、明の時代に同量の金や銀より価値を持ち、明王朝を訪問する近隣諸国代表者への下賜としても使われていたそうです。
当時は中国国内のみならず、ヨーロッパまでも輸出され、日本へは朝鮮を経由して製品や技術がもたらされます。日本磁器のルーツでもあるのですね。
産地である景徳鎮市は江西省東北部に位置し、日本の有田市や瀬戸市と友好都市となっています。
byキョーコ
東京都杉並区で、古い純錫製の酒器をお譲り頂きました
東京都杉並区で、古い純錫製の酒器をお譲り頂きました。
木箱正面には三越の印があります。その下はかすれていますが特選の印でしょうか。
徳利の方は高さ11センチくらい、 徳利の持ち手は藤巻になっていています。
御猪口は高さ2.4センチ、直径2.3センチほどと小振りで、底には「本錫」の彫りがあります。
錫器が日本に伝わったのは今から約1300年前と言われています。
当時は大変高価なものとして金や銀と同等の価値があり、宮中や主要な神社などの神仏具として使用されていたそうです。
庶民には手の届かない高級品だったのですね。
錫製品は熱の伝わりが早いだけでなく、お酒の風味がまろやかになるのだとか。
これからの季節にぴったりです。
Byキョーコ
東京都武蔵野市にて、古い中国製の紫檀煙草盆セットをお譲り頂きました
東京都武蔵野市にて、古い中国製の紫檀煙草盆セットをお譲り頂きました。
くまきちさん曰く、当時中国から日本に輸入されたものか、お土産品のような扱いだったのではないかなとのことです。
 
お盆は六角形、灰皿の煙草受けは金属製、瓢箪がついているのはマッチ箱をはさむ為のものでしょうか、、、煙草入れの蓋には彫りの施された玉がついています。
木の材質はいずれも紫檀です。
紫檀は落ち着いた深みのある色と品の良い落ち着いた光沢で、お盆の幅も28センチほどとこじんまりしていてかわいらしいです。
来客時にこんな煙草盆のセットをスッと出せたらステキです。
でも、紫檀の灰皿でぎゅっとタバコの火をもみ消されるところを想像すると、ちょっと。。。
。。。灰を落とす程度にしてもらいたいです。
Byキョーコ
神奈川県鎌倉市にて、柳原白蓮直筆の短冊をお譲り頂きました。
神奈川県鎌倉市にて、柳原白蓮(1885-1967年)直筆の短冊をお譲り頂きました。
NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」の放映で、主役の村岡花子以上にメディアに注目されたのが柳原蓮子であったのではないかしら、と思っていましたが、その白蓮直筆の短冊が今手元にあるのは何とも不思議な気がします。くまねこ堂ならではです。
白蓮は大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる高い身分ではありましたが、妾の子として生まれ、早くに父母を亡くし、望まぬ養子縁組・不幸な結婚などを経て、社会運動家の宮崎竜介の元へ命がけの出奔をしました。
当時新聞紙上をにぎわし社会的に大変な騒動となった 白蓮事件(wiki)の後、困窮した生活のためにたくさんの軸や短冊を書いたということですので、この短冊はその頃のものなのかもしれません。
自由を踏みにじられ、不幸な生活を長く強いられた白蓮でしたが、身分を捨て、時代にも反し、とうとう自分の力で自由を勝ち取ります。
そのぶれない強い意思や行動力は、当時の女性たちに大きな影響力を与えたのでした。
柳原白蓮 年表
1885年 伯爵柳原前光原と芸者おりょうの間に蓮子誕生
1888年 母病死
1894年 父死亡により、北小路家の養女に
1900年 北小路資武と結婚、華族女学校中退
1901年 長男出産
1905年 離婚 北小路に子どもを残し、実家に戻る
1908年 東洋英和女学校入学 佐々木信綱の竹柏園歌会入門
1911年 伊藤伝右衛門と再婚
1912年 「心の花」に作品発表
1915年 第一歌集「踏絵」刊行
1919年 詩集「几帳のかげ」、歌集「幻の華」刊行、戯曲「措鬘外道」発表
1921年 「新小説」に「短歌自叙伝」発表、大阪朝日に「近代の恋愛観」発表。 宮崎竜介 のもとに家出(白蓮事件)
1923年 宮崎竜介と再婚
1928年 自伝小説「荊棘の実」発表
1945年 学徒出陣中の香織(竜介との第一子)戦死
1946年 平和運動に参加、慈母の会結成
1967年 83歳で死亡
Byキョーコ
千葉県柏市で、十三代酒井田柿右衛門の額皿、錦 松竹梅鳥文をお譲り頂きました
千葉県柏市で、十三代酒井田柿右衛門の額皿、錦 松竹梅鳥文をお譲り頂きました。
直径は27.7センチです。
酒井田家は、慶長初年(1596年)の頃に有田郷、南川原で陶業を営み、鍋島の藩政下において御用保護を受けました。
初代柿右衛門が日本で初めて磁器に赤絵付けを試みることに成功したのは寛永末年(1644年)で、正保3年前後(1648年)には安定した色絵磁器を焼造しています。
この赤絵完成には初代の大変な苦労があったということで、逸話は明治末頃歌舞伎座、帝国劇場をはじめ、各地の舞台で上演されたそうです。
二代三代は早世だったそうですが、五代柿右衛門は元禄文化を背景に優品を世に残し、五代・六代の頃はオランダ東印度会社によって、ヨーロッパ市場にも交易されました。
十三代柿右衛門は明治39年に生まれ、昭和38年に襲名します。
昭和39年 日本工芸会正会員に認定される
昭和45年 佐賀県陶芸協会会長に就任
昭和46年 国重要無形文化財総合指定を受ける
昭和47年 紫綬褒章を受章
昭和51年 柿右衛門古窯跡第1次発掘
昭和52年 柿右衛門古窯跡第2次発掘
昭和53年 勲4等旭日小綬章受章 柿右衛門古窯跡第3次発掘
昭和57年 75歳で 歿。正五位に叙せられる 13代柿右衛門 有田名誉町民の称号を受ける
十三代経歴は柿右衛門窯web参照
↑ 「柿右衛門の栞」に掲載されていた写生中の十三代
今年2月には十五代柿右衛門が襲名されました。
先日ご紹介の今右衛門同様、伝統技術はしっかりと守り受け継がれています。
byキョーコ
千葉県柏市で、十二代色鍋島窯、今泉今右衛門の錦薔薇絵額皿をお譲り頂きました
千葉県柏市で、十二代色鍋島窯、今泉今右衛門の錦薔薇絵額皿をお譲り頂きました。
宮内庁御用達 十二代色鍋島窯、今泉今右衛門(1987-1997年)は1948年に十二代を襲名したのち、
1959年 皇太子御成婚に際し、和食器一揃い注文を受け納品
1967年 色鍋島の技術に対し、紫綬褒章を受ける
1971年 色鍋島技術保存会代表として、国の重要無形文化財総合指定の認定
1972年 勲四等旭日小綬章を受ける
などの活躍をされました。(今右衛門web参照)
共箱同封のリーフレット記載によると、今右衛門焼の特色として、創業以来300年間一子相伝の色絵の秘宝により、
一 時代が経つにつれてその色彩が冴えてくる
二 焼きが強いので使って丈夫である
三 長く使って決してあきのこない品物である
とあります。
このように技術が完成され、今日に受け継がれるまでには、苦難の道があったようです。
同じくリーフレットには略歴として、
日本の陶磁器発祥の地として有名な有田の赤絵町に於いて、300年前より佐賀藩主鍋島公の御庭焼(江戸時代、藩主、城主、老臣などが、城内や邸内に窯を築いて焼かせた陶磁器)、色鍋島の絵師として代々秘伝を継承。
明治期以後御庭焼が廃止となり、伝統技術の維持存続に相当な苦心を重ねるも、元禄時代にも劣らぬ作品の優美さに国内外の愛好家に真価を認められ益々愛用されるように。
終戦後は十二代により先述のような華やかな活躍があったとのことです。
伝統芸術の維持存続には国の理解や協力、保護が必要不可欠です。
現在ご活躍されている十四代今右衛門さんもまた、先日10月28日に、
「重要無形文化財保持者(人間国宝)」
の認定をお受けになったそうです。 
今右衛門のご先祖様、安泰でございますね。
byキョーコ



























































