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神奈川県鎌倉市にて、柳原白蓮直筆の短冊をお譲り頂きました。


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神奈川県鎌倉市にて、柳原白蓮(1885-1967年)直筆の短冊をお譲り頂きました。

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NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」の放映で、主役の村岡花子以上にメディアに注目されたのが柳原蓮子であったのではないかしら、と思っていましたが、その白蓮直筆の短冊が今手元にあるのは何とも不思議な気がします。くまねこ堂ならではです。:wa-i:

 

白蓮は大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる高い身分ではありましたが、妾の子として生まれ、早くに父母を亡くし、望まぬ養子縁組・不幸な結婚などを経て、社会運動家の宮崎竜介の元へ命がけの出奔をしました。 

当時新聞紙上をにぎわし社会的に大変な騒動となった 白蓮事件(wiki)の後、困窮した生活のためにたくさんの軸や短冊を書いたということですので、この短冊はその頃のものなのかもしれません。   

 

自由を踏みにじられ、不幸な生活を長く強いられた白蓮でしたが、身分を捨て、時代にも反し、とうとう自分の力で自由を勝ち取ります。

そのぶれない強い意思や行動力は、当時の女性たちに大きな影響力を与えたのでした。

 

柳原白蓮 年表

1885年 伯爵柳原前光原と芸者おりょうの間に蓮子誕生

1888年 母病死

1894年 父死亡により、北小路家の養女に

1900年 北小路資武と結婚、華族女学校中退

1901年 長男出産

1905年 離婚  北小路に子どもを残し、実家に戻る

1908年 東洋英和女学校入学 佐々木信綱の竹柏園歌会入門

1911年 伊藤伝右衛門と再婚

1912年 「心の花」に作品発表

1915年 第一歌集「踏絵」刊行 

1919年 詩集「几帳のかげ」、歌集「幻の華」刊行、戯曲「措鬘外道」発表

1921年 「新小説」に「短歌自叙伝」発表、大阪朝日に「近代の恋愛観」発表。 宮崎竜介 のもとに家出(白蓮事件)

1923年 宮崎竜介と再婚

1928年 自伝小説「荊棘の実」発表

1945年 学徒出陣中の香織(竜介との第一子)戦死

1946年 平和運動に参加、慈母の会結成

1967年 83歳で死亡

 

Byキョーコ 

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千葉県柏市で、十三代酒井田柿右衛門の額皿、錦 松竹梅鳥文をお譲り頂きました


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千葉県柏市で、十三代酒井田柿右衛門の額皿、錦 松竹梅鳥文をお譲り頂きました。

直径は27.7センチです。 

酒井田家は、慶長初年(1596年)の頃に有田郷、南川原で陶業を営み、鍋島の藩政下において御用保護を受けました。

初代柿右衛門が日本で初めて磁器に赤絵付けを試みることに成功したのは寛永末年(1644年)で、正保3年前後(1648年)には安定した色絵磁器を焼造しています。

この赤絵完成には初代の大変な苦労があったということで、逸話は明治末頃歌舞伎座、帝国劇場をはじめ、各地の舞台で上演されたそうです。

二代三代は早世だったそうですが、五代柿右衛門は元禄文化を背景に優品を世に残し、五代・六代の頃はオランダ東印度会社によって、ヨーロッパ市場にも交易されました。 

十三代柿右衛門は明治39年に生まれ、昭和38年に襲名します。

昭和39年 日本工芸会正会員に認定される
昭和45年 佐賀県陶芸協会会長に就任
昭和46年 国重要無形文化財総合指定を受ける
昭和47年 紫綬褒章を受章
昭和51年 柿右衛門古窯跡第1次発掘
昭和52年 柿右衛門古窯跡第2次発掘
昭和53年 勲4等旭日小綬章受章 柿右衛門古窯跡第3次発掘
昭和57年 75歳で 歿。正五位に叙せられる 13代柿右衛門 有田名誉町民の称号を受ける

十三代経歴は柿右衛門窯web参照

 

↑ 「柿右衛門の栞」に掲載されていた写生中の十三代

 

今年2月には十五代柿右衛門が襲名されました。

先日ご紹介の今右衛門同様、伝統技術はしっかりと守り受け継がれています。:hoshi1:

byキョーコ

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千葉県柏市で、十二代色鍋島窯、今泉今右衛門の錦薔薇絵額皿をお譲り頂きました

 
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 千葉県柏市で、十二代色鍋島窯、今泉今右衛門の錦薔薇絵額皿をお譲り頂きました。

 

宮内庁御用達 十二代色鍋島窯、今泉今右衛門(1987-1997年)は1948年に十二代を襲名したのち、

1959年 皇太子御成婚に際し、和食器一揃い注文を受け納品

1967年 色鍋島の技術に対し、紫綬褒章を受ける

1971年 色鍋島技術保存会代表として、国の重要無形文化財総合指定の認定

1972年 勲四等旭日小綬章を受ける 

などの活躍をされました。(今右衛門web参照

 

共箱同封のリーフレット記載によると、今右衛門焼の特色として、創業以来300年間一子相伝の色絵の秘宝により、

一 時代が経つにつれてその色彩が冴えてくる

二 焼きが強いので使って丈夫である

三 長く使って決してあきのこない品物である

とあります。 

 

 

このように技術が完成され、今日に受け継がれるまでには、苦難の道があったようです。

同じくリーフレットには略歴として、

日本の陶磁器発祥の地として有名な有田の赤絵町に於いて、300年前より佐賀藩主鍋島公の御庭焼(江戸時代、藩主、城主、老臣などが、城内や邸内に窯を築いて焼かせた陶磁器)、色鍋島の絵師として代々秘伝を継承。

明治期以後御庭焼が廃止となり、伝統技術の維持存続に相当な苦心を重ねるも、元禄時代にも劣らぬ作品の優美さに国内外の愛好家に真価を認められ益々愛用されるように。

終戦後は十二代により先述のような華やかな活躍があったとのことです。

 

伝統芸術の維持存続には国の理解や協力、保護が必要不可欠です。 

現在ご活躍されている十四代今右衛門さんもまた、先日10月28日に、

「重要無形文化財保持者(人間国宝)」

の認定をお受けになったそうです。 :hoshi1:

今右衛門のご先祖様、安泰でございますね。

byキョーコ 


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東京都大田区で、昭和レトロな内藤ルネの陶器人形をお譲り頂きました


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東京都大田区で、昭和レトロな内藤ルネの陶器人形をお譲り頂きました。

んー、カワイイ。。。

 

昭和感ムンムンですねえ。 

子どもの頃、カワイイ美少女画を描いたり人形を作ったりするのは女性かと思っていましたが、あとあと作者が男性だと知って、何だか不思議な気がしたものです。

 

内藤ルネとは、、、

1932年 愛知県岡崎市に生まれる

1944年 12歳で中原淳一の世界に惹き込まれる

1948年 16歳で雑誌「ひまわり」や「それいゆ」のとりこになり、中原淳一へ何十通も手紙を送る

1952年 中原淳一に呼ばれ、20歳でひまわり社入社。内藤瑠根(のちにルネ)のペンネームで活躍し始める

1960年 フリーになり、女性誌にファッションや人形を発表。翌年はファンシーグッズの制作も開始

1971年 ルネパンダ発表。翌年一大ブームに

1972年 「私の部屋」創刊後、80年代「薔薇族」表紙、90年代には内藤ルネ人形美術館会館、コレクション展など開催 

2007年 惜しまれつつ亡くなる(享年74歳)

内藤ルネ年表を参考にさせていただきました)

 

内藤ルネの描く女の子は、可愛く、カッコよく、ファッショナブルで、今見ても全く色あせていないのがスゴイです。:hoshi1:

昨年や今年も様々な角度から内藤ルネを捉えなおそうと企画展が催されました。

いまだ人気は衰えていません! 

日本のカワイイ系サブカルの立役者のひとりですね。:wa-i:

byキョーコ


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川崎市中原区で、戦前の日露戦争戦跡めぐりのスタンプ帖をお譲り頂きました

 

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川崎市中原区で、戦前の日露戦争戦跡めぐりのスタンプ帖をお譲り頂きました 。

約7×8.5センチほどの小さなもので、スタンプの日付は昭和15年でした。

さてさて、めくってみましょう。

旅順表忠塔 15.4.25

塔は旅順港そばの白玉山(高さ約130メートル)山頂にあり、高さ66.8メートル。日露戦争に勝った日本が、軍の重鎮だった東郷平八郎と乃木希典の発案で、1909年に戦死者追悼のために建立。日本統治時代の旅順を代表する建築物で、新中国成立後、「白玉山塔」と改名。・・・大連市観光局のwebサイト参照

 

右: 旅順  東鶏冠山北堡塁(とうけいかんざんきたほるい)

日露戦争時、堡塁の正面で2.3tのダイナマイトを爆破させ、これに乗じて日本軍が堡塁を占領。この戦闘で日本軍は約8,000人の死者が。・・・Wiki

 

右:旅順戦跡二〇三高地 巡拝記念 15.4.25

ロシア海軍の基地のあった旅順港を巡り、日露の争奪戦による激戦地となった場所・・・Wiki

 

左:旅順戦跡 爾霊山高地 記念 

乃木希典は自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん)と詠んだ。 ・・・Wiki

 

右:奉天忠霊塔 忠霊塔とは陸軍による戦争の跡地に建立された戦死者を慰霊する塔・・・Wiki

左:奉天同善堂

右:奉天 昭和15年5月12日

左:北大営戦跡 (昭和九年九月十八日ニ於ケル) 戦跡記念塔

昭和9年9月18日とは満州事変の日付ですね。

事件現場の柳条湖近くには国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」があり、関東軍は爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠。・・・Wiki

 

 右:奉天神社 

1915(大正4)年に建立された、天照大神、明治天皇を祭神とする神社。現在はもうないそうです。

左は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館なので、日本ですね。

 

この方が中国で戦跡めぐりをした昭和15年とはどんな年だったのか、おさらいしてみました。

内務省より芸名などのカタカナ名を漢字名へ改名命令。隣組強化法が制度化。

ぜいたく禁止令が発令され、東京には「ぜいたくは敵だ」の立看板が。

国民服の着用が義務化。

ゼロ戦登場。。。

 

ちなみに、翌年には上野動物園の熊を射殺。12月に真珠湾攻撃をし、開戦。

 

、、、、軍事色一色の時代に押されたスタンプ帖だったのでした。  

byキョーコ

 

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川崎市中原区で、戦前の駅スタンプを多数お譲り頂きました

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川崎市中原区で、戦前の駅スタンプを多数お譲り頂きました。

主に昭和7年~10年の日本国内のみならず、中国の大連、平地泉なども含む駅スタンプです。

時代が時代ですから、のどかな絵柄から、戦時下のものまで!

いくつかご紹介いたします。

 

↓昭和7年城崎駅

↓昭和8年 御殿場駅

 

 ↓昭和8年大阪 旭日旗に陸戦隊 観兵式記念とあります。

 ↓鹿児島駅 西郷さん

↓宮崎駅 敵国降伏!

 

↓久留米駅 左上の方に戦車や日の丸のついた空軍機が!

 

↓金沢駅 金沢城

↓西宮市駅 野球ボールがモチーフですね。

↓尼ヶ崎駅 太閤記十段目

 

↓岡山駅 岡山城

 

 ↓札幌駅 年月日不明

 

↓支那事変の郵便はがきに平地泉駅スタンプ 民国27年4月(昭和13年)

↓大連駅 昭和8年

 

全部お見せできないのが残念なのですが、

日付を見ると、短期間の内に鹿児島から北海道まで移動しているのがわかります。

まるでスタンプラリーです!

 

おぉ!?

この束の下から何やら小さなスタンプ帳も出てきました。

次回はこちらをご紹介させて頂きますね!:wa-i:

byキョーコ 

 

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川崎市中原区で、明治・大正期の鉄道食堂車チラシをお譲り頂きました

 
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川崎市中原区で、明治・大正期の鉄道食堂車(列車食堂)チラシをお譲り頂きました。

 

名刺よりも一回り大きいサイズでステキなイラスト入り。 

 チラシのメッセージは様々です。 

 

「朝食/昼食/夕食の御支度が出来ました」

 

「一品料理の御支度が出来ました」

 

「お定食は間もなく終ります 御召上りの方はお早くお越し下さいませ、、、」 

大正モダンな雰囲気ですねえ。 

ライスカレー 三十銭   合ノ子弁当 五十銭

ん?合ノ子弁当?Weblioによると、「米の飯に西洋風に調理した惣菜を添えた弁当。明治末・大正期に流行。」なのだそうです。

 

「程なく休ませて頂きます。 どうぞ御はやく食堂へお出下さいませ。」

 

 

「冷たいお飲みものいろいろ御座います」

 

 

「只今食堂がスイてゐます!」  あら?もしやベティちゃん?

 メニューにはお刺身やビーフステーキまであったのですねえ!

 

日本初の食堂車は1899年山陽鉄道が運行した官設鉄道京都―山陽鉄道三田尻間。

写真にもある精養軒は1901年に官営鉄道(国鉄)新橋駅 – 神戸駅間の急行の車両に入ったのが最初だそうです。

東松軒は1908年の鉄道国有化以降に東海道・山陽線に。→Wiki

 

ところで、このチラシは座席に配布されたものだったのでしょうか。 

座席で居眠りをしてふと目を覚ますと、このチラシが目の前に置かれていたりしたのかもしれませんね!

 

私、前回旅したのは飛行機で日帰りの高知。:naku:

このチラシを眺めていたら、無性に鉄道の旅をしたくなってきました。(お休みいただこうかしら。。。)

座席で食べる駅弁も乙ですが、たまには食堂車でゆったりと食事を楽むようなゆとりのある旅をしてみたいものです。

byキョーコ

 

 
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川崎市中原区で昭和初期の小学生日記をお譲り頂きました


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川崎市中原区で昭和初期の小学生日記をお譲り頂きました。

表紙には昭和9年9月 東須磨小学校第二学年とあります。

 

 表紙をめくると、

ほぉー、、

・日記は自分の歴史

・日記は心の鏡

・日記は心の強いか弱いかをはかる試金石。必ず書くことによって辛抱強い人とならねばなりません。

記し方

・毎日何か一つでも善い行いをして書きなさい。

・綴り方のおけいこのつもりで本気で書きなさい。

 ほか、、 

さらに、1ページ目には「日記の誓」が5項目。

 

 

それでは日記をめくってみましょう。どれどれ。

 

 男の子は兵隊ごっこ、女の子は看護婦さん役なのですね。

 

 

印刷文かと思うほどキレイな字で先生が一文添えておられます。

「にっきは一生書きませう。大人になって、君がりっぱな人になってをればをるほど、にっきはなつかしくたふといものになりませう。」

 

 

 おにいさんの試験勉強中にうるさくして、「6時32分に寝ろ。:ikari:」としかられています!

 

 

成績が上がっておとうさんおかあさんに褒められたそうです!

 

日記帳最後のページ。↓ 

大正天皇のお亡くなりになった日(12月25日大正天皇祭/大正天皇崩御日)、天皇の写真を見ながら勉強したとあります。

 

子どもの日記とはいえ、時代が反映されていてとても興味深かったです。

それにしても、言葉の使い方が丁寧ですね。書き手はなかなかお利口さんのようです。

それとも当時の小学二年生は皆このようにしっかりしていたのでしょうか!?

 

はたして、現代の平成の小学二年生たちは一体どのような日記を書くのかしら!?

 byキョーコ

 
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川崎市中原区で、戦前の観光絵葉書(満鉄関係含む)などをお譲り頂きました


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川崎市中原区で、戦前の観光絵葉書(満鉄含む)などをお譲り頂きました。

昨日ご紹介した満鉄 (南満州鉄道) の切符など、戦前の古切符を買い取りさせて頂いたお宅では、古い絵葉書などもたくさんお譲り頂きました。

その中に、満鉄関係のものもありましたので、一部ご紹介いたします。

 

快速車“あじあ”の雄姿

(昨日ご紹介した中に、このあじあ号の切符がありましたね!)

 

 

大連にあった南満州鉄道株式会社全景

 

 

第一次満鉄総裁後藤新平伯銅像 

下にいる人と比べるとこの銅像がかなりの大きさであることがわかります。まるで一国の指導者です!

 

 

満鉄自動車局発行の道路地図

 

上記は全て絵葉書です。

 

以下、南満州鉄道“株式会社”というだけあって、株主への配当支払票です。

 

まあ、、よくも捨てずに。。。

 

持ち主の方は昨日の古切符に限らず、様々なものを捨てずに保管される方だったようです。

ご家族(特に奥様)のご理解があったのではないでしょうか!?

 

お陰様で今となっては貴重なものばかりです!:wa-i:

byキョーコ

 


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川崎市中原区で、満鉄切符など戦前の鉄道古切符をお譲り頂きました

 
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川崎市中原区で、満鉄(南満州鉄道)切符など 戦前の鉄道古切符をお譲り頂きました。

 

くまきちさん、買い取りから戻られてすぐに切符の種類を仕分けし始め、

他と区別したのがこちらの3枚!

南満州鉄道の切符、いずれも昭和13年で、快速車“あじあ”や大連、新京、吉林の駅名が見えます。

 

 

買い取りに伺ったのが、かつて満州でお仕事をされていた方のお宅だったとのことで、

戦前の切符がこれだけまとまってあれば、必ずや満鉄の切符も混じっているに違いないと一目見て確信した!:b_body_jump:とくまきちさん。

 

他を拝見しましたら、赤線硬券入場券や寝台券、日本各地の鉄道切符、バス切符までありました。 お仕事の関係か、大分移動の激しい方だったようです。

 

私は古切符の知識がないのでそれぞれの珍しさや面白さは残念ながら分からないのですが、お分かりになる方は1枚1枚手に取るのがさぞかし楽しいでしょうねえ、、、:wa-i:

byキョーコ

 


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