買取事例
国立西洋美術館 日伊国交樹立150周年記念「カラヴァッジョ」展のポスター・リーフレットを頂きました。
国立西洋美術館 日伊国交樹立150周年記念「カラヴァッジョ」展のポスター・リーフレットを頂きました、
どうもありがとうございます!
38歳でこの世を去った天才カラヴァッジョ。
リーフレットの記載によると、現存する真筆数はたったの60点強で、移動不可能な作品が多数あるのだそうです。
今回展示される希少な傑作10点は、日本で過去最多、世界でも有数の規模となります!!
これは観に行かねば!!!
カラヴァッジョの画法を学び継承した画家たち、カラヴァッジェスキの作品もあわせて展示されます。
2016年3月1日~6月12日 東京 上野 国立西洋美術館
日伊国交樹立150周年記念「カラヴァッジョ」展
詳しくは国立西洋美術館HPをご参照ください。→ http://caravaggio.jp/
byキョーコ
千葉県船橋市で、骨董と骨董関連の図録をお譲りいただきました。
千葉県船橋市で、有田焼の皿とともに、図録もお譲りいただきました。
他県で開催される美術展にも足を運ばれるということで、静岡県にある美術館の図録もありました。
東京国立博物館 特別展「生誕150年 黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」のポスター・リーフレットを頂きました
東京国立博物館 特別展「生誕150年 黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」のポスター・リーフレットを頂きました、
どうもありがとうございます!
リーフレットに記載されていた黒田清輝の年譜を少々抜粋。
1866年(慶應2年)鹿児島の生まれ。
12歳で高橋由一の門人細田季治に鉛筆画・水彩画を師事。
18歳法律修学のため渡仏!
21歳、法律学校に入学するも同年退学!!
27歳で日本に帰国するまで、サロンへの出品や幾度かの入選を果たし、帰国後は日本の西洋画に多大な影響を与えます。
日本では作品制作のみならず、美術教育への貢献、貴族院議員にも当選しますが、数年後の58歳に逝去。
太く短く駆け抜けた人生でした。
今回の展覧会ではフランスの師、コランやミレーらの作品に加え、浅井忠や青木繁ら同年代の作家も合わせた約240点もの作品が展示されます。
特別展「生誕150年 黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」
3月23日-5月15日東京国立博物館 平成館
詳しくは博物館のwebサイトをご覧くださいませ。→http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1759
↓ リーフレット内で目を引いたこちら、相互割引や期間限定ペアで使えるお得なお花見チケットもあります!
詳細は公式サイトにてご確認ください。
次回はイタリア絵画の巨匠、カラヴァッジョの展覧会情報をお知らせいたします。
どうぞお楽しみに!
byキョーコ
東京都渋谷区にて、人間国宝 藤原啓の備前徳利をお譲り頂きました
東京都渋谷区にて、人間国宝 藤原啓の備前徳利をお譲り頂きました。
昨年6月にも同作家の備前徳利を当ブログでご紹介させていただきました。
是非見比べてみて頂ければと思います。
藤原啓は異色の陶芸家です。
文学の道を志して岡山から上京、出版社で勤めた後に物書きに専念するも行き詰まり、30代後半に帰郷します。
その後まもなくして三村梅景や金重陶陽(初の備前焼人間国宝)の指導を受け、才能を開花させていきます。
従来の備前焼の型にはまらずに、素朴さ・実直さ・独創性を併せ持ち、今も多くの人々に親しまれています。
藤原 啓 (ふじわら けい/1899年- 1983年)
[藤原啓 略歴]
明治32年(1899) 岡山県和気郡伊里村穂浪字井田(現、備前市)で生まれる。
昭和13年(1938) 39歳 陶工三村梅景より指導を受け、金重陶陽の志と技法を引き継ぐ。
昭和14年(1939) 40歳 初窯を焚く。
昭和17年(1942) 43歳 備前焼研究家桂又三郎の斡旋により、第一回個展を岡山市禁酒会館で開催。
昭和23年(1948) 49歳 国の指定による丸技作家の資格を受ける。
昭和24年(1949) 50歳 岡山県文化連盟賞受賞。
昭和28年(1953) 54歳 日本橋壼中居で個展開催。
昭和29年(1954) 55歳 北大路魯山人の斡旋により、日本橋高島屋で個展開催。
昭和30年(1955) 56歳 東京日本橋三越で個展を開催。岡山市の天満屋でも隔年で個展開催。
昭和31年(1956) 57歳 日本工芸会正会員。
昭和32年(1957) 58歳 岡山県指定無形文化財「備前焼」保持者に認定。
昭和33年(1958) 59歳 日本工芸会理事就任。
昭和37年(1952) 63歳 プラハ国際陶芸展にて金賞を受賞。ヨーロッパ、中近東諸国を巡る。
昭和38年(1963) 64歳 山陽新聞賞、岡山県文化賞、中国文化賞受賞。
昭和40年(1965) 66歳 中南米へ旅行。
昭和43年(1968) 69歳 古希記念展を東京日本橋三越にて開催。
昭和44年(1969) 70歳 新宮殿に゛擂座壼゛一対を納める。「備前・藤原啓」出版。岡山県天満屋で「藤原啓回顧展」開催。
昭和45年(1970) 71歳 重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
昭和46年(1971) 72歳 勲四等旭日章受章。
昭和48年(1973) 74歳 「第二回日本陶芸展」岡山高島屋にて「平櫛田中・藤原啓二人展」開催。岡山県より三木記念賞受賞。「藤原啓備前作品集」出版。
昭和49年(1974) 75歳 岡山天満屋にて「藤原啓喜寿記念展」開催。
昭和50年(1975) 76歳 迎賓館に゛備前水指゛゛備前花入゛を納める。
昭和51年(1976) 77歳 備前市名誉市民に。岡山天満屋葦川会館にて「古備前と藤原啓・雄父子陶芸展」開催。フランス、スイス、ベルギー三カ国巡回。日本橋高島屋にて喜寿記念「藤原啓自選展」開催。岡山山陽新聞画廊にて「唐津茶碗―荒川豊蔵・小山冨士夫・藤原啓合作展」開催。
昭和52年(1977) 78歳 東京高島屋にて「ヨーロッパ巡回帰国記念藤原啓・雄展」開催。財団法人「藤原啓記念館」完成。
昭和53年(1978) 79歳 岡山高島屋にて「藤原啓一門展」開催。旧宅跡に藤原啓記念碑建立。
昭和54年(1979) 80歳 傘寿記念展を岡山天満屋、姫路山陽、東京高島屋にて開催。
昭和55年(1980) 81歳 岡山県郷土文化財団に自作三十点を贈呈。
昭和56年(1981) 82歳 東京高島屋、大阪高島屋、姫路山陽、広島天満屋にて「藤原啓のすべて展」開催。「藤原啓自選作品集」出版。名誉県民(岡山県)に。
昭和57年(1982) 83歳 岡山天満屋にて「藤原啓の世界展」開催。記念館にて「藤原啓の交友展」開催。
昭和58年(1983) 84歳 死去。勲三等瑞宝章受章。
(藤原備前三代「炎の詩」ウエブサイトより参照させて頂きました。 http://www.fujiwarabizen.com/index.html)
byキョーコ
東京都北区赤羽にて、ブランデーやウイスキー、ミニボトルをお譲りいただきました 。
東京都北区赤羽にて、ブランデーやウイスキー、ミニボトルをお譲りいただきました。
こちらはヘネシー(Hennessy)という銘柄のコニャックです。
恥ずかしながら私、最近までブランデーとコニャックとを混同しておりましたが、
コニャックは、フランスの「コニャック周辺」でつくられるブランデーのことだそうです。
ちなみにこの箱にお顔が見えるのは、リチャード・ヘネシー氏、ヘネシーの創業者です。
他にも、カミュ(CAMUS)などをお譲りいただきました。
箱から出すと…
お酒の味もさることながら、ボトルのデザインにも心惹かれます。
byナカゴン
東京都練馬区にて、昭和20年代~30年代のグリコのおまけを多数お譲り頂きました。―後半―
東京都練馬区にて、昭和20年代~30年代のグリコのおまけを多数買取り致しました。―後半―
前回は2缶のうちひと缶をご紹介いたしました。
今回は残るひと缶を見て参りましょう。
木製、ブリキ、アンチモニーなどなどミックスです。
国名や都市名の入ったバスやトラックです。
上段左から、イタリア、イギリス/ロンドン、パリ。手前左からスイス、イギリス、ドイツ。
↓ イギリス(左)は二階建てバスですね!スイス(右)はトラムでしょうか。
働く車
↓ グリコ入り発見!! レアですねえ。
左から二番目はフランスのコオコクトウ(広告塔)と書かれています。
右端のトラックはアンチモニー製でしょうか。
コマ、ベル、ロボット、カメラ、ラジオ、スコップ、鍬まで!
キッチン、ピアノ、椅子、柱時計、電話、卵焼き器、ホットサンドプレート、ネズミ取り??
前回あったものもちらほら。
アンチモニーの船、車、ピストル、サンダルなども。
当時はこういったおまけを内職のおばさんが一個一個手作りで仕上げていたかと思います。
種類の豊富さにも圧倒されました。特定できないものもありましたが。
昭和のおまけものは奥が深い!次回の入荷も楽しみです。
byキョーコ
東京都練馬区で、昭和20~30年代のグリコのおまけを多数お譲り頂きました。―前半―
東京都練馬区にて、昭和20年代~30年代のグリコのおまけを買取りさせて頂きました。―前半―
感動のかわいさです。
缶もレトロ感満載。森永アソートキャンデー。
木製でも部分的に布、ブリキ、ビニールなどが使われ凝っています。
寿司屋! 幅2.5センチ。
店の裏口までしっかりありますよ。
パリのノートルダム寺院。イタリアは大聖堂でしょうか。
ブリキ製のおまけもたくさん。
くまきちさん曰く、企業名や、「グリコ」と入っている物はレアだそうで、
↓こちらは「エールフランス」と入っていますね。
あらゆる生活用品がモチーフに。斧やトリコロールカラーのスコップもステキ。
お、「グリコ」入り発見
行司の軍配団扇ですよ。
バリカン?や秤だってちゃんと動くのです。
これは何かしらと思ったら、くまきちさん、すかさず「三面鏡だよ!」
動物や時代を感じさせるオート三輪、乳母車も。
後半につづく。
どうぞお楽しみに!
byキョーコ
東京都杉並区にて永樂善五郎の仁清写 柳に鞠茶碗をお譲り頂きました。
東京都杉並区にて、永樂善五郎の仁清写 柳に鞠茶碗をお譲り頂きました。
永樂(永楽)善五郎は前回に引き続きのご紹介になります。
箱の書き付けは同じく鵬雲斎です。
永樂善五郎については前回のブログ内で少々触れさせていただいております。
このお宅様からは他にもステキなお品をたくさん買取りさせていただいたのですが、
あれもこれも目移りしながらご紹介している寄り道だらけの当ブログ。
今日、またしてもくまきちさんから興味深いお品を拝見してしまったので、
次回はそちらをご紹介させて頂きます。
どうぞお楽しみに!
byキョーコ
東京都杉並区にて永樂善五郎の黄交趾 菊唐草菓子鉢をお譲り頂きました。
東京都杉並区より永樂(永楽)善五郎の黄交趾(こうちやき) 菊唐草菓子鉢をお譲り頂きました。
永樂善五郎は京焼の家元であり、名誉ある千家十職※(せんけじっそく)の家筋です。
※千利休を祖とする表千家・裏千家・武者小路千家・三千家の家元が使う茶道具を作る家筋十家のこと。
共箱にある花押は鵬雲斎でしょうか。
永樂(楽)善五郎(初代から九代は西村姓)
室町時代、初代宗禅は奈良の西京西村に住み、春日大社の供御器を制作。
晩年には武野紹鴎からの依頼で土風炉を制作、土風炉師善五郎を名乗る。
二代宗善は堺に、三代宗全以降は京都に住む。
小堀遠州の用命を受けた際に「宗全」の銅印を拝領、以後九代まで作品に「宗全」印を捺用。
1788年天明の大火で家屋敷や印章を焼失するも、三千家の援助で十代了全再興。
十一代保全は1827年、紀州藩十代藩主徳川治寶の別邸西浜御殿の御庭焼開窯に招かれ、「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印「永樂」の銀印を拝領。以降、「永樂」の印章を用いると共に十二代和全の代から永樂姓を名乗る。(のちに十代了全と十一代保全も永樂の名で呼ばれている。)
(Wikipediaを参考にさせていただきました)
現在は十七代目です。
十七代 永樂善五郎氏のHPを拝見しましたら、
東京芸術大学でまず日本画科を卒業、その春同大学大学院の工芸科陶芸専攻に入学し翌年修了されていました。
絵付けも大変緻密で美しいわけですね。。。
つづく
byキョーコ
神奈川県横須賀市にて、業者を経由して南極観測船「宗谷」第二次観測隊帰港式の紙資料をお譲り頂きました。
神奈川県横須賀市にて、業者を経由して南極観測船「宗谷」第二次観測隊帰港式の紙資料をお譲りいただきました。
封筒の中には観測隊員御家族へ来場に関するお願いの手紙、帰港式式場案内略図、新聞記事の切り抜きが入っていました。
封筒の宛名は前回までブログ記事に登場していた軍艦比叡士官(1/5記事、1/9記事)で、帰国する隊員は士官のご子息です。
第二次観測隊は、1957年10月21日出航、1958年4月28日帰国です。
悪天候や船の問題などにより南極で越冬できず、やむなく樺太犬を置き去りにせざるを得なくなりました。
後に南極物語として有名になったあのタロとジロの、といえばお分かりになる方が多いと思います。
封書の差出名は南極地域観測統合推進本部本部長と、海上保安庁長官です。
宗谷は東京湾の日の出桟橋に帰港。
帰港式式典においてのお願い
同封されていた新聞記事。
士官のご子息は東大附属病院勤務で宗谷では医療担当であったのですね。
「ご苦労さん、元気でなによりでした」と家族に迎えられ、
「越冬できなかったのがなにより残念です」と悔しさをにじませたとの事。
「無事帰国したし、今度は結婚式ですよ」と、両親の本音もしっかり記載されています。
戦前から戦後にかけて、あるご家族が保管されていた大変貴重な資料を拝見することができました。
次はどなたの手に渡るのでしょう。
しばし、くまねこ堂の倉庫で待機です!!
byキョーコ