買取事例
東京都内にて、古く素朴な十三佛様の掛軸をお譲り頂きました
東京都内にて、古く素朴な十三佛様の掛軸をお譲り頂きました。
「これ、変わってるよねえ」とくまきちさんが見せてくださったものです。
達筆とは違う素朴な味わいにあふれています。
十三佛の掛軸は、江戸時代より法要をはじめとする仏事に飾られてきたものだそうです。
顔の表情や手足の表現など全体的に画力は見られませんが、独特な形の捉え方があるように思われます。
絵として見たら立派な個性ですね。
素峯謹寫とあるのでしょうか。
とても簡単な表装でかなりイタミがありました。
ちょっと楽しい仏画鑑賞でした。
byキョーコ
番外編 買い取り品の中に、、、
先日、買い取り本のチェックをしていた同僚のコロスケさん(♀)が、
「こんなものが本に挟まっていました!」
と見せてくれました。
あら、猫たちのスナップ写真が。。。猫好きな方がお読みだったのですね。うふ。
本は「ペリー日本遠征随行記」新異国叢書/雄松堂書店でした。
裏にはちゃんと名前が記入してありました。 日付は1996~1997年で4枚。
老猫マイケル 小林まことの『ホワッツマイケル』あたりから名付けられたのでしょうか。
まいまい ちょっぴりおデブさんですか?
野良猫メカ子?変わった名前ですねえ、どんな名付けのいきさつがあったのかわかりませんがかわいいです。うふふ。
ひと月ほど前、同じくコロスケさんが本のチェック中、 突然 「ゥオーー!!」と叫びました。
古い本にはいろいろなものが挟まっているものですから。。。えぇ。
女性でも急にびっくりした時には、あまり「キャー」とは言わないのかもしれません。
私も怖い夢の中では何度も叫んだことがありますが、「ゥオーー!」でした。
買い取り本の中には、古い葉書、手紙、写真、レシート・領収書、押し花、展覧会の半券、プリクラなどが挟まっていることがあります。
たくさんの本をチェックする中でこういったものを見つけると、ほんの束の間、どんな方がお持ちだったのかな、 何時ごろ読まれたのかな、 と思いを馳せます。
byキョーコ
東京都杉並区にて、京都京極さくら井屋 大正モダンな木版刷りご祝儀袋をお譲り頂きました。
東京都杉並区にて、京都京極さくら井屋の木版刷りご祝儀袋をお譲り頂きました。2
本日ご紹介するのは大正モダン的なデザインのものです。
大胆な構図、色鮮やかな赤
トランプ柄 ハートのエースが多いですね。
シルエットもの
草花のモチーフ
こちらはDOSHISHAとあります。同志社大学ですね。 こんなご祝儀袋もあったとは!!
上はペナントのようなデザイン、下は校歌です。楽譜を彫るのは大変だったと思います。
画像では伝わりづらいかもしれませんが、一部に金や銀のインクが使用されているものも多く、キラリとよく効いています。
小さな封筒だというのに、ひとつひとつデザインが凝っていて見飽きません。
レトロな年代物として使用するもよし、額装して飾るもよし。
印刷では出せない木版手摺りの魅力が満載なお品でした。
byキョーコ
東京都杉並区にて、京都京極さくら井屋 舞子の木版刷りご祝儀袋をお譲り頂きました。
東京都杉並区にて、京都京極さくら井屋の木版刷りご祝儀袋をお譲り頂きました。1
この木版刷り、たまらなくキレイです!!ムラムラムラ
他のお店のものも若干混じっていました。
このさくら井屋さん、 天保年間から創業されていたそうですが、 2年程前に閉店されていました。
木版摺り職人さんの不足により商品の製作・維持が困難となり、ひとまず閉店ということのようです。
いつか再開していただきたいものです。
このご祝儀袋、絵柄様々たくさんお譲り頂いたので、次回は大正モダン的な雰囲気のものをご紹介させて頂きます。
どうぞお楽しみに!
byキョーコ
東京都杉並区にて、伊藤忠財閥の2代目当主伊藤忠兵衛直筆の御扇子をお譲り頂きました
東京都杉並区にて、伊藤忠財閥の2代目当主、伊藤忠兵衛直筆の御扇子をお譲り頂きました。
くまきちさん曰く、伊藤忠とかかわりのある方からの買い取りであったのだそうです。
左が伊藤忠兵衛直筆の御扇子です。
いつごろ書かれたものかわかりませんが、 二代目伊藤忠兵衛は明治19年の生まれ、昭和48年にお亡くなりになっているので、相応に古い物ですね。
芦乃芽や 志賀に(は) ささなみ/さくなみ・・・・・
ムムー、勉強不足の私には所々しか読めません。
(所々も間違っていたらゴメンナサイ)
二代目は初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した店を受け継いで経営を拡大し、商社の礎を築いた事業家です。
伊藤忠商事株式会社のwebサイトには 二代目についてこんな記述がありました。
大正9年の金融恐慌による経営危機の際は、「屈すべきときに屈しなければ、伸びるときに伸びられない」という哲学のもと、大胆な事業縮小と経営改革を断行し、未曾有の難局を乗りきりました。このとき彼が新たに組織した経営陣は、忠兵衛以下平均年齢35歳という若さ。まるで現代のベンチャー企業の経営体制をみるようです。
この御扇子、覚書が巻かれていて、「お母さま 忠兵衛さま 御直筆」と書かれていました。
こちら、お母さまが書かれたとある御扇子。
一見、何かしら?と思いますが、覚書にはこうあります。
「お母さまより 腹をたてるな ○○の宝もの 大切に」
とあります。
腹を立てるな!だから、「腹」の字が横になっていたのですね!
扇子を横にすると
これは素敵!
この御扇子を贈ってくださったお母さま、粋です。
私もこの御扇子を記憶に留めて、「腹をたてない」を心掛けたいと思います。
byキョーコ
東京都内にて、大正~昭和期のチラシをお譲り頂きました
連続でお送りしていました大正から昭和にかけての新聞記事スクラップ帖。
ご紹介は本日が最後になります。
読むのが辛くなるような戦況を伝える記事がびっしり貼られたスクラップ帖とは別に、こんなチラシもいっしょになっていました。
東京日日新聞
東日機ニツポン 世界一周大飛行
「懸賞募集」 ニツポンは何時間で太平洋を横断するか 締切八月二十日
・・・盟胞ドイツ、イタリーは勿論のこと、世界の各國からも壮挙を祝して激励歓迎の言葉や着陸の希望が申込まれてゐる。
・・・ニツポンこそは世紀の「人気もの」でまことに感激に堪えぬ次第である~
かなり高揚した表現ですね!
日独伊三国同盟後のようですので、昭和15年以降の記事のようです。
裏面には、「世界一周大飛行の歌」が。(橋本國彦作曲)
一 國をうづめた 日の丸の 歓呼の中に 羽搏いて
わがニツポンは まつしぐら 六萬キロの 空を飛ぶ
二 廣い海原 雲の峯 越えつつめぐる 五大洲
わがニツポンは たくましい つばさで 強く抱くのだ
三 すさぶ吹雪と熱風の 太洋ふたつ 飛び越えて
わがニツポンの 行くかなた 大空晴れて 虹を呼ぶ
四 遠く故國を 幾千里 異郷に暮らす 同胞も
わがニツポンを 仰ぎ見て 「君が代」たかく 歌ふのだ
五 銀の翼に 陽をうけて 世界を結ぶ この使命
わがニツポンは 高らかに かちどきあげて 帰へるのだ
楽譜の始まりには『勇マシク』と入っています。
メロディーを追ってみましたら、曲調はやはり軍歌ものでした。
こちらはガラリと変わって「割烹旅館 池袋草津」の広告郵便です。
池袋の草津をご存知ですか 外國美人と温泉の御歓待?
「汽車もいらない池袋草津 医者も学者も来る銘湯」呵々
山手線池袋駅下車北へ三丁 人力車賃五十銭
三丁は約327m、ほぉー、人力車が走っていた頃なのですねえ、
このチラシはいつ頃のものか不明です。
池袋は今は繁華街ですが、戦前は田んぼが広がるようなのんびりした所だったそうです。
それにしても、こんな広告郵便がよく残っていたものだと感心します。
くまねこ堂には幅広く様々なお品がたくさん入ってくるのですが、
見慣れるというよりは毎度毎度感心して見入ってしまいます。
次回はガラリと変わって小粋な御扇子をご紹介いたします。
どうぞお楽しみに!
byキョーコ
東京都内にて、昭和6年の新聞記事の切り抜きが貼られたスクラップをお譲り頂きました
連続でお送りしている戦前のスクラップ記事、本日は昭和6年の新聞切り抜きをご紹介いたします。
昭和6年と言えば、満州事変が起きた年です。
(以下、誤字脱字があった場合はご容赦くださいませ)
まず目を引かれたのは、
「満州事変は子供の心理にどんな反映を与えたか」
親として教育家として敵愾心より正義心を導け
大人が戦争を恐るべき事だとすると、子供も、戦争は恐ろしいものだと思ふし、大人が戦争を勇ましいものだとすると、子供も戦争を勇ましいものだとするやうになる~
教育家の方面からいへば、敵愾心よりも正義心、敵を憎むといふよりも自分の國の意識、さういふものを、この際正しく導き、発展させて行きたいものと思ひます~
満蒙対策座談会
出席者
来賓側:伯爵、男爵、子爵、元内務大臣、政友会総務、貴族院議員、日清汽船社長、鮮銀総裁、満鉄東京支社長、陸軍少将、三井合名常務理事他
本社側(新聞社):社賓、副社長、本社顧問、副主幹、政治部長他
兵匪討伐の皇軍
戦線急速度に進展
晴れの門出
家族に激励され わが勇士出発
軍装検査中誤って中隊長を射殺す
戦場でなら、、、と悲しむ母堂
田庄台市街戦
山海関守備隊の武装検査と大隊教練
北寧線上の激戦 白旗堡で火蓋切らる
戦史にもない新戦術
当時のメディアがどのように戦況を伝えていたのかわかりますね。
このスクラップ帖は女性が作成したもののようなので、もしかしたらご子息が出兵されて、熱心に記事を集めておられたのかもしれない、と想像しました。。。
byキョーコ
東京都内にて、大正~昭和期の新聞記事「迷信の犠牲 丙午娘」の切り抜きが貼られたスクラップをお譲り頂きました
連続でお送りしている大正・昭和頃の新聞記事スクラップ帖、
本日は「迷信の犠牲 丙午娘」シリーズ連載です。
丙午の娘を持ち悩み貫く親が日本国中百万人もいると社会問題に。
迷信打破の実例としてシリーズ連載されたとのことです。
では早速見て参りましょう。
(以下、誤字脱字があった場合は何卒ご容赦くださいませ)
今年で二十五の娘盛り 全國で五十萬人
幸福な実例はこんなにある 易者も笑ふ迷信
丙午の女は亭主を殺すと昔から言ひ伝へられ忌み嫌はれてきた~
ここの年に生れたばつかりに廿五の今日迄嫁入口は無い者
許婚の者が丙午と知れた為に破談となり世をはかなみ鉄路の錆海の藻屑とあたら若い命を捨てる者も少なくない~
夫は食ひませんと微笑む久子さん
歌舞伎俳優中村福助夫人
『丙午は夫を食ふなどとは根も葉もない迷信だ』と中村家で日頃から信心する金光様東京出張所の畑先生が仰つたので私達が晴れて夫婦となれたのです~
娘時代は泣きの涙 今は楽しく孫の守
白虎隊の母 石田茂登さん
初めて嫁の話の出たのは廿七(27)の時だつた、先方は妻に子供二人を残されて死なれた漢法医石田龍玄氏で初婚の女には喜ばれない後妻だつたが『どうせこの年まで売れ残つた午(うま)だ』と諦め嫁いだ~
十九の厄に結婚した十違ひの御夫婦
迷信の打破に精進する 金光教の畑氏夫人 靜江さん
この丙午御夫婦は世に忌み嫌ふ十違ひ、しかも靜江さんは十九才の厄年に結婚して居る、友達には『悪いからお止しなさい碌なことはない』などと言はれたものだがそんな事には頓着なく結婚してしまつたものだ、然しそれ以前御二人は切つても切れぬ青春の血を燃やした熱い仲だつた~
兄子爵も反対した結婚に愛の勝利
女校長さんが仲に入り幸福に浸る高木道峰氏夫妻
『私ほんとうに嫌でした、一生のうちにあんなに丙午を恨みまた悲しんだ事はないです』
『丙午でも二月、三月に生まれた者は春駒と言つて鐘太鼓をたたいて捜してもないそうです~』
当時の丙午生まれの女性にとっては人生のかかった大変な問題だったのですね。
迷信を打ち破るべく、新聞が一役買っていたのでした。
(以下にも連載が続きますので、お時間のある方はどうぞお読みください!)
byキョーコ
東京都内にて、大正~昭和期の新聞記事「年々増加する不良の話」の切り抜きが貼られたスクラップをお譲り頂きました
連続でご紹介している大正~昭和期の新聞記事切り抜き。
本日は、「年々増加する不良の話」シリーズ連載からです。
昭和4年の日付けが書きこまれていますね。
警視庁警部北紺屋署 飯島三安氏の談です。
手心を加へる少年法 落ち行く処は右傾派が多い
学生系統に属するものと一般青少年との区別はあるが何れも十八歳以上二十二歳未満のものが団長になつている場合が多い。而も斯うした不良性を帯びた者の将来は右傾的になり、右傾団に入るのが大体の彼らの常道であるのも面白い~
一番多いのは窃盗 危険なのは十八から二十の間
不良少年と一概にいつてもいろいろ手段とか方法があるが大体左記(以下)の三種で
一、硬派不良少年
二、軟派不良少年
三、掻浚、萬引、窃盗
金があればお互いに融通 彼等が目をつける異常な服装
大流し―団体を組んでゴロリゴロリと押し歩く一種の示威運動
ゴロマク―喧嘩を吹きかけること
ヒンプリ―関西方面でよく用ひられる脅迫のこと
オンリョウ―金を借りること
のゐ―玉の井のこと
メイド―亀戸のこと
番犬付―愛人のある女
ピンツキ―警視庁のリストに載つていること
キング―団長
親類―警察のこと
退院―出獄のこと
ヨタ―仲間の不良のこと
ズベ―不良少女のこと
不良の元祖は白井權八
「雉も鳴かずば撃たれまい・・・・テモ不憫なことをしたナー」
ポーン鈴ヶ森で有名な白井權八君は当時のモダーンで軟派の大将格であつた、今の軟派はあまり殺傷沙汰はないが、權八君時代には両方兼ねたのが多かつた~
団長格は~美少年を弟子とか或は稚児と称して自分の愛する少年を作つてゐた~
現在でも中学生や女学生間に斯うした風習は残つてゐる~
稚児の奪ひ合いから殺傷沙汰や決闘をすることがよくあつたものだ~
不良少年のつかふ言葉 怪しいと気付いたら警戒しなさい
年末に際してはびこり出す
ヨタル・・・丸ビルや銀座をブラつくこと
モーション・・・異性の後を追ふこと
スタート・・・異性をだましはじめること
バンド・・・女学生
ボタン・・・男学生
バラ・・・かたい女、素人の美人
カモ・・・おごってくれる人
トンボ・・・カフェーの女給
オケラ・・・一文無し
バンコウ・・・交番
ガチヤ・・・巡査
ナマ・・・現金
ドロン・・・逃げること
マゲル・・・借りる
ホンケ・・・警視庁
この他色々な言葉がありますがこれらの言葉は一番多く使用されるものですから女の方はこの言葉を覚えておき電車の中や活動館などでかうした言葉を使用するものがあつた場合警戒を怠らず其場を避ける事が必要です
(以上、誤字脱字があった場合にはご容赦くださいませ)
自分の身を守るためにこれらの不良言葉を覚えるのも楽じゃありませんね!
今の時代の感覚からすると今一つピンとこない記述もありますが、
当時の世相や風俗を読み取ることのできる貴重なスクラップ帖には違いありません。
まだまだつづきます
byキョーコ
東京都内にて、大正~昭和期の新聞記事「家庭生活における能率増進」の切り抜きが貼られたスクラップをお譲り頂きました
本日ご紹介する大正~昭和期の新聞のスクラップは、
「家庭生活における能率増進」シリーズ連載。
執筆者は能率推進運動協会幹事 塚本はま子女史です。
この記事を見るまで、このスクラップ帖の作成者は男性だと思っていたのですが、この記事からすれば女性ですよね!?
では早速見て参りましょう。
(お時間のある方は1枚ずつお読み頂ければと思います。)
社交編(一) 結婚について
結婚は~子孫にも国家の将来にも重大なる関係を有するものであります~
「男女七歳にして席を同じゅうせず」の思想が一般的には存在しておりますので、自然人を見る明を欠き~
自ら知情意の統合により配偶者を選択することは到底出来がたい状態にあります~
社交編(二)
政略的の結婚や、財閥的の結婚やを強いる事が今なほ少なくないやうであります~
離婚の統計による率は日本が世界一であると申します~
かの不良少年少女の多くが生みの両親の膝下に育ち得ずして他人の手で養育せられたるもの~
社交編(四)
婚約が成立すると両親の意思として、「足入れ」などと称へてしばらく娘をその家に行かせ、同居生活を営ませ、双方納得の出来た上で、改めて挙式し、且披露します~
社交編(五)
各国に比して日本は非常に多く、国富が最も少なく、天産物に乏しい我國が、他國に比して遥に多い結婚費を消費することは、真に嘆かはしき事~
社交編(六)
従来の習慣上困難な問題とせられて居りますのは、いはゆる嫁姑の問題や、親子別居の問題です~
一般に若い者が年寄りの意見を容れて、その習慣的生活に同化するやうにしてさへ居れば、何の紛争も困難も起こりはせず、犠牲的の精神で忍耐して行けば、親達も喜ばせる事が出来~
社交編(七)
創作的家庭を築き上げる事もまた必要とする所であります。しかしながら~
老人に取りましては、自分の苦心惨澹して築き上げた生活を、丸で古草履でも捨ててしまふやうに捨てられた如くに感じて自分の所有するあらゆる権利をすべて奪ひ去られた如く感じて、どんなにか執着も多く未練も残る事でせう~
社交編(九)
良き家風、美しき人格が、やがて國家社会の風俗を為すもの基となるものでありまして、家族生活の良否は、社会を善くも悪くもし、國家の隆昌、社会の繁栄には大切なる要素となるのであります~
社交編(十)
準家族(女中や使用人等)は、~兎角素養の少ないものは目前の事のみを考へて将来の慮を為す事が出来難いものですから、与えた自由な時間、休養の時間にはつまらぬ事に費やさぬやうに、翌日の計量を建てさせ、あるひは裁縫を教へ、新聞の読み方を教へる等将来の生活に必要なことを教え導く事が最も大切であります~
社交編(十一)
女中といへども立派な一個の人間であり大切な預物であることを思って、昔の様に機械の如く一日中働かせて休息も与へなかったり病気になっても薬もろくにろくに与へず暗い部屋に寝かせ放っておく様な事をせず~
社交編(十二)
縁者は親戚関係よりも軽いものである、といふのが古来より存在する日本人の思想でありまして~
常に夫の家に対しては身を低くし、何事につけても下手に出て居らねばならなかったのでありますが~
従来の習慣を排して、親戚同様に円満なる交際をなすべきであります~
(以上、誤字脱字はご容赦くださいませ!)
昭和4年の記事かと思われます。
今と価値観が違いすぎて、かえって興味深く読んでしまいました!
( かつて祖母が、「結婚後はいろいろ大変だったわ」と言っていたことも思い出しました。。。)
つづく
byキョーコ