買取事例
頭をかじらせて願いを込めたい♡木彫の根付をお譲り頂きました。
今年はお祭りとか、やっぱりないですよね~~???( ;∀;)
暑い日が増えてくると、縁日や花火が恋しくなってくるのです。

先日は品川区でなんと7代続く家系のお客様!より、ジュエリー、アクセサリー、外国のコイン、古銭、腕時計、ボールペン、根付、銭箱、ギフト、ウェッジウッド、ピエールカルダン、アーノルドパーマ等、お家まるごと拝見させていただき、お譲り頂きました。
中には江戸時代のお品物も!昭和平成の小物から、
おそらく100年以上は経過しているような貴重なお品物まで、
沢山のお品物を拝見させていただき、ありがとうございました。
今回はそんなお品物の中から、趣のある根付をご紹介させていただきます。

作者の銘はありませんでしたが、
表情に風格がある獅子頭の根付です!
今一度、ネットで画像をひろいながら色々見比べてみて、
獅子舞の頭って、地域や種類によって色んなお耳の形がありますが
耳がもうちょっと架空の生き物っぽい?
少し豚🐷のような、エアリー感のある耳(特に加賀獅子)も多いですね。
だからでしょうか。
私、最初こちらの根付を拝見した時、なんだか狛犬っぽいと思いました。
たれ耳萌え~~🐶
あ~あと、現代のわんこならパグっぽい所もあるかもしれませんね🦴

写真だとわかりづらいのですが、経年変化もあると思われます、
瞳の部分が艶が出ていてうるうるした感じの眼になっています。
木彫等で、古いものならではの木の光沢を見ると、
正に美しさに”磨き”が掛かっているなあ~~と惚れ惚れしてしまう事があります。

立派な眉毛と麿眉!
(いや、恐らく眉毛の端のカールの表現なのでしょうが(笑))
ここの麿眉の部分を目と勘違いする人が一定数いるでしょうな(笑)
顔全体同色だと尚更!オモロ~👽

この獅子頭、なんと。

パカッと頭をかじれちゃう仕様なんです!
今からでもいい!頭を噛んでくれ!頭よくなりてえよ!!!!
舌にペロちゃんマークみたいな切れ込みが入っています→😋
これは狙ってやってるのか?!それともタダのキズなのか!?(;’∀’)汗

下から見るとこうなってます~↑
根付って360度見どころがあるものが結構あって楽しいですね。
思わず写真を色んな角度から撮ってご紹介してしまいました😊🗾♪
ありがとうございました!
かこさん
戦時中の郵便貯金の証書を紹介します
いつもくまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます。
今回は、絵はがきの整理をしていた最中に、紛れ込んでいたものをご紹介します。大きさは、はがきとほぼ同じものです。

アジア・太平洋戦争(当時、大東亜戦争と呼ばれた)の時期の、特別据置貯金証書です。特別据置貯金証書とは、画像の説明書き中にあるように、「郵便貯金法及其ノ付属法」に基づいた貯金の証明書というわけです。とりあえずは、ここに記載された14円が、戦時中の郵便貯金であり、それも定期預金の金額であったことがわかります。
とすると、いくつか疑問が浮かびます。「特別」据置貯金証書というのは、何が「特別」なのでしょうか。それは「郵便貯金法及其ノ付属法」にあたってみるほかありませんので、即答はできませんが、戦時中だから「特別」なのでしょうか。また、上記の証書の場合では、1943年3月4日から5年間の「据置」すなわち定期預金であり、その満了は1948年3月3日となっています。周知のとおり日本は1945年8月に敗戦するわけですが、この特別据置貯金という定期預金は、その満了を迎えたときに引き出せたのでしょうか。
おそらく現金化することは不可能であったことでしょう。確実なことはいえませんが、これから挙げるいくつかの理由から、特別据置貯金証書は「紙くず同然」となったと思われます。
・敗戦後のハイパーインフレーションに対処するため、1946年2月の金融緊急措置令によって預金封鎖・新円切り替えが実施されました。そのため、戦時中の旧円の証書である特別据置貯金証書で預金を引き出すことは不可能であったのではないでしょうか。
・特別据置貯金の根拠となる「郵便貯金法及其ノ付属法」では、据置期間が満了を迎える前に、戦争が終わることを想定していなかったかもしれません。「大東亜戦争」の特別据置貯金の満期が、当然のように5年後の1948年3月3日満了と証書に記載されているように、もはや戦争が日常化していたのでしょう。以下に掲げた3枚めの画像では、5年後の満了日が1949年8月6日になっています。

ともかく、戦時下の定期郵便貯金である「特別据置貯金」が、敗戦後にどのように扱われたのか、法的根拠を示しながら述べる準備は、今のところありません。おそらくは、透明性とは程遠い、複雑怪奇な制度であったことでしょう。たとえば、「満了以前に敗戦したので、払い戻しの手続きは法的に存在しません!」と居直る政府に対して、その責任を追及することは困難だろうと想像します。
やはり、この証書は、換金されずにこうして絵はがきに混ざっているような代物である、ということに立ち返るべきなのでしょう。こういう状態を「紙くず同然」と呼んでも差し支えないはずで、このことをひとまずの結論としておきます。
一方で、戦時中における郵便貯金の役割は当時から重要視されていました。この点は、その重要性ゆえにいくつかの注目すべき書籍や文献に依拠して調べることができましたので、その一端にふれてみたいと思います。
戦前の日本においては、日中戦争勃発後の1938年、国民精神総動員運動の一環として、貯蓄奨励運動が盛んに展開されました。第一次近衛文麿内閣の賀屋興宣(かや・おきのり)蔵相は、率先して貯蓄奨励のための講演で全国を回りました。賀屋がそこまでして貯蓄奨励にこだわった意図とはなんでしょうか? このことについて、1937年9月10日に公布された臨時軍事費特別会計法とその運用を検証した鈴木晟氏は、賀屋の講演に依拠して次のようにまとめています。
「臨時軍事費の財源の多くが公債であることは前述したが、賀屋によれば支那事変(日中戦争)が始まってから昭和14年(1939年)5月27日までに発行した国債の総額は74億6000万円で、その消化の内訳は、大蔵省預金部(郵便貯金などを運用)が引き受けたのが14億3000万円、国債引受銀行団が1億円、『日本銀行がまず一手に引受けたものを民間等に売却したものが49億1600万円』である。(中略)このような公債の消化は国民の貯蓄の増加に依存している。大蔵省預金部にしろ、また市中の銀行・信託会社・保険会社にしろ、その保持している公債の元手は、郵便貯金や銀行預金にほかならない」
(※)鈴木晟『臨時軍事費特別会計――帝国日本を破滅させた魔性の制度』(講談社、2013年)142‐143頁。

このようにして戦中の日本は、国民の預貯金を根拠にして発行された大量の国債を用いて、戦争を続けたわけです。こうした財源上のからくりによって、日本の軍国主義が支えられていたことについては、敗戦後、経済復興のための調査研究に従事した日本人自身によっても問題視されました。
外務省調査局事務官の大来佐武郎(おおきた・さぶろう)が中心となり、技術系の専門家やエコノミストや・経済学者らが集結してまとめた外務省特別調査委員会の報告書「日本経済再建の基本問題」(1946年3月、同年9月に改訂)には、以下のような記述があります(現代仮名遣いに改めて引用し、代名詞などは適宜ひらがなとしています)。
「証券取引が未発達であり、国民の投資に対する関心が薄く貯蓄は大部分郵便貯金または銀行預金の形をとり、直接株式その他の企業投資に向かうことが少なかった。その結果として金融機関は自己または政府の意志に基いて自由に運用し得る多額の預貯金を持つことが出来たのである。かくて集中せられた資金は軍需工場の拡大や政府公債の引受等に向けられ、国民大衆の利益に還元し来ることが極めて少なかったのである」
(※)外務省特別調査委員会「改訂日本経済再建の基本問題」1946年9月、中村隆英、大森とく子編『資料・戦後日本の経済政策構想』第1巻(東京大学出版会、1990年)166頁。
ここで指摘されている「国民の投資に対する関心が薄く貯蓄は大部分郵便貯金または銀行預金の形をと」っている状況は、現在でもあまり変わりません。戦後の高度成長を経た日本では、価値が安定した円が、大量に預金されているということを前提に、政府が国債を発行し続けてきたという事情があります。けれどもその前提がいつまで通用するかわかりません。
今回紹介した、特別据置貯金証書の存在が示しているのは、定期の郵便貯金が紙くず同然になったという戦時~敗戦の教訓です。戦争に加担した郵便貯金、敗戦後に無価値となった郵便貯金という凄まじい話なわけです。しかもこの教訓の一部には、そうした預金の使途や後片付けについて、私たちがかなりの程度無関心であったことも含まれています。それを思うと、改めて現在の状況で、財政・金融について自分なりに考える必要を感じさせられます。
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くまねこ堂では様々なお品物の買取を行っております。それらお譲りいただきました品々を、なるべくタイムリーな形で当ブログで紹介してまいります。また、書籍・古道具などのご処分をご検討の際は、是非くまねこ堂までお申しつけ下さいませ。
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小野坂
市川市で出張買取でした🚙
こんにちは。いつもくまねこ堂ブログをお読みいただきありがとうございます。
本日は千葉県市川市のお客様より出張買取のご依頼でライター、銀製品、根付、木彫、美術書、古書、展覧会カタログ、スピリチュアル、精神世界、宗教学などをお譲りいただきました。ありがとうございました。
今回のお客様のお家は、お父様が作品作りなどをなさっていたそうで、お家丸ごと見させていただいたのですが、椅子なども作られたものがあり、とても素敵でした✨
お譲り頂いたものの中から一部紹介させていただきます。

こちらは茶器です。どれも可愛らしい手のひらサイズで、三つもあると更に可愛いですね。しかし、小さいものを作るのは細かい作業になるので、不器用なわたしはこういう細々したものを見ると、やっぱり職人さんてすごいんだなあと小学生のような語彙になってしまいます笑。

こちらも同じく茶器です。蓋の模様が綺麗ですね。わたしは急須でお茶を淹れたことが数える程しかないのですが、急須でお茶が出てきたら「かっこいい!!!」となりますよね。


こちらは彫ったはんこを押して作品にするためのものだそうです。これはまだまっさらなものですが、どんどんはんこがたまっていたらおもしろそうですね。御朱印帳のような感じなのでしょうか。上の画像が閉じた状態のもので、下の画像が開いた状態のものです。外見のデザインもかっこいいですね。
くまねこ堂では古本だけでなく、古いおもちゃや古道具、アクセサリーや万年筆など、何でも見ることが出来ます。中にはもうゴミかも…と思っているものにもお値段がつくかもしれません。ご処分やご整理にお困りのお客様がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡くださいませ。
また、緊急事態宣言期間となっておりますが、くまねこ堂では買取依頼を受け付けております。場合によっては即日出張買取も可能です。
お電話、LINE、またはメールフォームにてスタッフ一同、心よりお待ちしております。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ち
出張買取でレトロゲーム各種を買い取らせていただきました。
こんにちは。いつもくまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます。
本日は出張買取でお譲りいただいた品物をご紹介いたします。
今回の買取先は、千葉県は市川市のマンションで、家主の方がご引っ越しのついでにマンガやゲーム機器類の処分をご希望されたので、相殺処分・買取をさせていただきました。
買い取らせていただいた品物は、「闇金ウシジマくん」をはじめとした漫画およそ3000冊と、ファミコン、スーパーファミコン、ニンテンドー64、SG-1000Ⅱ(セガマーク2)、プレイステーション2・3、ゲームボーイなどのレトロゲーム機器及びそのカセット類です。
以下の写真は今回買い取らせていただいたお品物の一部です。



余談ですが、私は初めて買ってもらったゲーム機がニンテンドーDSだった世代なので、これらレトロゲーム機器には初めてお目にかかりました。皆さんが初めて手にしたゲームは何でしたか? また、最も熱中したゲームなどはございますか? ちなみに私はドラゴンクエストⅨです。
このようなちょっとしたことでも話の種になるかもしれませんね。
くまねこ堂では、新型コロナウイルス感染症対策を最大限に講じつつ、本や骨董の買取を行っております。買い取りをご希望するお品物をお持ちの際は、是非ご気軽にご相談ください。
以上拙い文章でしたが、お読みいただきありがとうございました。
赤尾
数多くの文士が愛したといわれる老舗・丸善のロングセラー
先日は中野区のお客様より、カメラ、コンタックス、写真集、切手等をお譲りいただきました!
ご依頼誠にありがとうございました!📷📚
本日は、スタッフがここ最近買取でお譲りいただきました、万年筆を中心としたビンテージの文房具の中で見かけた、お洒落なパッケージのお品物をご紹介させていただきます!
くまねこ堂ではビンテージのシャープペンシル、ボールペン、万年筆等、
机周りの文房具も出張買取ではよく拝見させていただいております🖋☆彡
本棚と勉強・お仕事デスクって近い場所にありますしね( ´艸`)




丸善アテナインキをお譲りいただきました!
明治時代から数多くの文士が愛したといわれる老舗・丸善(創業1884年)。
1907年から輸入物の萬年筆の販売を始めると同時に、
ペンと合わせて付属品も充実するようになりました。
元々は大衆への認知度が低かった万年筆でしたが、
その機能美の虜となる文豪達の後ろ盾もあり、🐈📚
1910年頃から丸善オリジナルブランド万年筆「オリオン」の発注を開始、
1912年頃には1日100本も売れる丸善の看板商品となっていたそうです。
この丸善「アテナインキ」は、一時姿を消したものの、
リニューアルを繰り返し、戦前から(!)売られ続ける、ロングセラー商品です。
私にとって丸善といえば東京駅直通のでっかーい新刊書店がパっと浮かぶ存在なのですが、
万年筆コーナー、現在も充実していますよね💕
イニシャルを刻印できるサービスもありますから、
大切な方へのプレゼントにも喜ばれます🎁
是非、ショーケースを覗きに行ってみてください。
それにしても、
現在のよく見かけるシュっとした小瓶とは違った、ずんぐりした形が可愛いですね~💘
かこさん
神奈川県のお客様より陶器やガラス製品をお譲りいただきました。
こんにちは。いつもくまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます。
ついこのあいだ年が明けたなーと思っていたら、もう早くも五月に入りまして、光陰矢の如しを実感しております。それというのも昨年から外出自粛を意識するようになり、愈ふだんの生活でめったに新奇なことに巡り合わなくなったからである気がしております。
日に日に気温が上がっているこの頃ですが、みなさん衣替えはもう済みましたでしょうか。どうでもよいことですが、私は五月に入ってから夏服を着始めました。北国の出身なもので暑がりなのかもしれません。
さて、聞くに堪えない私個人についての話はここまでとして、本日参りました出張買取のご紹介をしたいと思います。
此度のお客様は、神奈川県は横須賀市の方で、マイセンの食器やボヘミアのガラス製品をはじめとする洋食器、香蘭社や深川製磁の有田焼、絵画、額、リトグラフや種々のギフトといったお品物を譲っていただきました。
下の写真は、お譲りいただいた品物から一部選び取って撮影したものです。

ご興味のある方は是非調べてみてはいかがでしょうか。
くまねこ堂では、新型コロナウイルス感染症対策を最大限に講じながら、古本・骨董の買取を行っております。買い取ってほしいお品物をお持ちの方は、是非ご気軽にご相談ください。
拙い文章でしたが、お読みいただきありがとうございました。
赤尾
シベリア出兵に従軍した第7師団歩兵25連隊の行軍を記録した鉄筒をお譲りいただきました!
世田谷区のお客様より買取のご依頼をいただきました。その際には、眼鏡、ハーモニカ、フルート、時計、ネクタイピン、外国コインをお譲りいただきました、ありがとうございます!
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いつもくまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます。
以前の投稿で、日中戦争期の額装品について扱いました。それは、日中戦争の勃発を受けて中国北部の北京・天津地方に派遣された日本軍に所属する、安治県豆張荘警備隊長であった石井泰作に対して、1937年11月付で贈呈されたものです。その送り主は、天津市内の武清第三区地方治安維持会(主席委員:黎子明)となっています。ここに描かれているのは、北京の萬壽山の全景です(※)。
(※)日中戦争期の額装品とアルバムをお譲りいただきました! ~その2 武清県治安維持会とは何か? 傀儡政権?!(くまねこ堂骨董ブログ、2021年4月26日)
https://www.kumaneko-antique.com/17371/
今回は、上記の石井泰作警備隊長の、日中戦争以前の従軍に関する記録について紹介します。その記録は、謄写版で用いられる鉄筆かそれに似たような刃物で、文字が鉄の筒に刻まれたものとなっています。

画像では文字が判読しづらいので、冒頭部分を、適宜句読点を補って以下に転記しました。
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歩兵第二十五連隊第二大隊行動詳記
大正六年五月十二日鉄嶺駐箚地着。翌七年八月九日午後十一時応急準備下令。同年同月十六日午後二時三十分鉄嶺出発
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歩兵第25連隊は、北海道に置かれた常備師団の第7師団に属しています。鉄嶺とは中国東北部、満州の都市ですが、ここに歩兵第二十五連隊が大正6年(1917年)5月12日に到着したという記述から、この記録は始まっています。1917年といえば、ロシアで二度の革命が起こり、帝政が転覆されて、共産主義勢力を中心とするソヴィエト政権が樹立された年になります。その翌1918年8月9日に、「応急準備」という命令が歩兵第25連隊に下されたというわけです。いったい何の「応急準備」だというのでしょう。
続く鉄筒の記録を確認してみましょう。1918年8月16日に鉄嶺を出発した歩兵第25連隊は、それ以降、長春、哈爾浜、海拉爾、を経て満州里に8月22日に到着したと記載してあります。この時期と地名から、何の「応急準備」かといえば、疑いもなくシベリア出兵です。
シベリア出兵とは、ロシアの共産主義に基づく革命勢力による国家建設を妨害すべく、イギリス・フランス・アメリカ・日本など第一次世界大戦の連合国が、共同でシベリアに軍隊を派遣したことを指しています。日本政府は1918年8月2日、シベリア出兵を宣言しました。それを受けて満州に駐屯していた歩兵第25連隊が「応急準備」に入ったことを、再度確認しておきます。共同派兵で認められていたウラジオストクからのルートではなく、この満州からシベリアに侵攻する作戦は、日本軍の独断によるものでした。

▲麻田雅文『シベリア出兵――近代日本の忘れられた七年戦争』(中央公論新社、2016年)、マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇(上巻)――ロシアにおける社会主義の歴史1917~1991』(草思社、1997年)【セット本で出品中!https://amzn.to/33ge7Ip】
ところで、「出兵」というと単に出かけていったような軽い感じを受けますが、実態はもちろん物見遊山ではありません。The Allied Intervention in Russia 『ロシアへの連合干渉』と近年刊行された本のタイトル(※)となっているように、第一次世界大戦の連合国による対ロシア干渉のための戦争と呼ぶほうが、現実に即しています。当然ながら、この干渉戦争は、ロシア人からみたら、外国の軍隊に祖国を蹂躙されたという事態にほかなりません。
※Ian C. D. Moffat, The Allied Intervention in Russia, 1918-1920: The Diplomacy of Chaos (London: Palgrave Macmillan, 2015)
なお、英語版ウィキペディアでは、日本の「シベリア出兵(Siberian intervention)」と、連合国全体の軍事行動を扱った項目が別々になっています。後者はAllied intervention in the Russian Civil War(ロシア内戦への連合干渉)というタイトルで、日本語ページはありません。この事実をもってしても、「シベリア出兵」という用語が、どれだけ世界標準の認識から離れているのか感じられると思います。
このように述べたからといって、日本に即した認識がただちに間違っているといっているわけではありません。特殊日本的な「シベリア出兵」と、国際関係の視点からみた連合国による「ロシア内戦への干渉」といった認識の落差に注意する必要があるということを、歩兵第25連隊の足取りを追って気づきました、と報告したかったのです。歩兵第25連隊がたどった、満州からシベリアに侵攻する作戦は日本軍の独断であったと先に述べましたが、こういうところにも、日本の「シベリア出兵」と連合国による「ロシア内戦への干渉」の違いが出ています。
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くまねこ堂では様々なお品物の買取を行っております。それらお譲りいただきました品々を、なるべくタイムリーな形で当ブログで紹介してまいります。また、書籍・古道具などのご処分をご検討の際は、是非くまねこ堂までお申しつけ下さいませ。
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小野坂
日中戦争期の額装品とアルバムをお譲りいただきました! ~その2 武清県治安維持会とは何か? 傀儡政権?!
いつもくまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます。
前回の投稿(※)で、近年の日中戦争「和平工作」研究においては、これまで詳しく論じられてこなかった対日協力者をめぐる諸問題に光が当てられている、というお話しをしました。たしかに、対日協力者は南京政府の汪兆銘だけではなかったのです。今回は、この点に関する書籍を参照しつつ、最近入荷した日中戦争期の額装品とアルバムを紹介していきます。
※日中戦争期の額装品やアルバムをお譲りいただきました! あわせて日中戦争研究の必読書、戸部良一『ピース・フィーラー――支那事変和平工作の群像』(論創社、1991年)が入荷しました!(くまねこ堂骨董ブログ、2021年4月23日)
https://www.kumaneko-antique.com/17368/
まずは、以下の額装品をご覧ください。





この額装品は、日中戦争の勃発を受けて中国北部の北京・天津地方に派遣された日本軍に所属すする、安治県豆張荘警備隊長であった石井泰作に対して、天津市内の武清第三区地方治安維持会(主席委員:黎子明)より1937年11月付で贈呈されたものです。題字は「深感維護」、宛名は「石井隊長 徳政」とあります。描かれているのは、北京の萬壽山の全景です。
また、同時にお譲りいただいたアルバムを確認しますと、次の任務の写真がありました。


▲5行目、「固安県 隊長時代」

石井泰作は、翌1938年1月から天津市に隣接する廊坊市の固安県警備隊長として戦闘に参加しています。1937年7月末に北京・天津地方を一応の占領下に置いた日本軍でしたが、当地の治安を維持するために、引き続き各地での転戦を余儀なくされていました。こうした石井警備隊の動きをみれば、治安維持のための戦闘は、年を超えても収束に向かっていなかったことがうかがえます。
※先の説明で出てきた、天津市武清区と廊坊市固安県の位置は、以下のグーグルマップ上に作図したものをご覧ください。

それでは、額装品の送り手である「武清第三区地方治安維持会」とは何なのでしょうか? そもそも治安維持会とは? そして、北京・天津地方占領後の戦闘に従事していた石井警備隊長とどういった関係にあったのでしょうか? それらのことについて、広中一成『傀儡政権――日中戦争、対日協力政権史』(角川書店、2019年)を参照してみました。
同書によると、1937年7月28日の総攻撃によって、北京・天津一帯を占領した日本軍は、同地域の治安維持のために対日協力者による傀儡政権の成立に向けて動いていたことが指摘されています。そのような傀儡政権が、○○治安維持会の名で各地に設けられていきました。武清県治安維持会も、そうした傀儡政権のひとつということです。額装品には「武清第三区地方治安維持会」とありますから、さらに区域ごとに分かれていたようです。こうした各地の治安維持会は日本軍にとって、とりわけ石井泰作率いる警備隊にしてみると、その任務の遂行において重要なパートナーであったのではないか、と思われます。
しかしながら、これら各地の治安維持会の統廃合、その上で成立する新傀儡政権をめぐって、日本軍内部でも意見の違いがありました。また、そうした傀儡政権の対日協力者と、日本軍に抵抗する中国民衆との間で起こる対立は、避けようもありませんでした。こうして、状況は複雑化していきます。日本軍は、自らがつくり出した傀儡政権とともに、日中戦争の泥沼にはまっていくことになりました。
なお、広中『傀儡政権』80頁の表で、武清県治安維持会の指導者名が空欄になっています。ともすると今回紹介した額装品にみられる人物のいずれかが、そこに記入され得るのかもしれません。
以上のように、近年の日中戦争研究の動向に関わるようなお品物をお譲りいただく機会に恵まれました。記して感謝申し上げます。今回ご紹介したもの以外にも、取り上げるべきものもございます。それらについて追って投稿していく予定です。引き続きご覧くださいますようお願い申し上げます。
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くまねこ堂では様々なお品物の買取を行っております。それらお譲りいただきました品々を、なるべくタイムリーな形で当ブログで紹介してまいります。また、書籍・古道具などのご処分をご検討の際は、是非くまねこ堂までお申しつけ下さいませ。
お電話またはメールフォーム、LINEにて、お気軽にお問い合わせ下さいませ。スタッフ一同心よりお待ちしております!
小野坂
即日出張買取で種々の骨董品を買い取らせていただきました。
こんにちは。いつもくまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます。
本日は陽が強く射していて、マスクをしているせいでしょうか、何だか蒸し暑く感じられ、溽暑という言葉がぴったり当てはまるような昼間でした。
さてさて、本日は買取は買取でも即日出張買取に行って参りました。この度は江東区のお客様にご依頼いただき、レコード、洋画、銀製品(ティーセット)、腕時計、万年筆、外国のコインなどをお譲りいただきました。
レコードはかなりの枚数を買い取らせていただきました。

私はレコードが全盛期の時代にはまだ生まれていなかったので、口惜しくもレコードを見て懐古できるような過去を持っておりませんが、テレビなどで見聞きするに、「初めて買ったレコードは○○だ」というような、特定のレコードが自分の思い出の中の一部になっている方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。そういうお話を聞くと、自分も昭和の良き時代に生まれたかったなとも思ったりしてしまいます。
拙い文章ですが、以上ご覧いただきありがとうございました。
くまねこ堂では、新型コロナウイルス感染症対策に最大限配慮しながら、古書・骨董品の買取を行っております。買取をご希望のお品物をお持ちの方は、是非ご気軽にご相談ください。
赤尾
日中戦争期の額装品やアルバムをお譲りいただきました! あわせて日中戦争研究の必読書、戸部良一『ピース・フィーラー――支那事変和平工作の群像』(論創社、1991年)が入荷しました!
先日は江東区古石場のお客様より 腕時計、オメガ、SEIKO、Nikon双眼鏡、カメラ、古銭等をお譲りいただきました。
ご依頼誠にありがとうございました。

いつもくまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます。
日中戦争(1937-45年)に関する書籍など、近代日本史の研究書が最近入荷しました。2017年は勃発から80年ということで各所でシンポジウムが開かれましたが、さらに近年の研究成果をふまえた書籍が続々出版されています。他方で、それら先端的な成果の土台となってきた、不朽の名作を改めて読み直す必要も感じています。
そこでご紹介したいのは、次の一冊です。

戸部良一『ピース・フィーラー――支那事変和平工作の群像』(論創社、1991年)です。本書は、日中戦争の終結に向けた「和平工作」の実態を一次史料(当時の公文書や当事者の日記など)に基づいて詳細に分析し、この分野の研究水準を一段と引き上げた一冊です。それまでの研究にも重要なものはありますが、それらは旧軍人の回想録や証言をもとに行われていたという、史料上の制約は否めません(※)。ともかくここで確認したいのは、次の実感です。歴史研究の軌跡を振り返って感じるのは、その時々の史料の公開・整理の状況によって、その段階での最善が尽くされているということです。
※この点については、 衛藤瀋吉著作集編集委員会『衛藤瀋吉著作集〈第2巻〉東アジア政治史研究』(東方書店、2004年)の巻末の座談会記録を参照ください。くまねこ堂で現在出品中です。
https://amzn.to/3tH2YMy
さて、『ピースフィーラー』のハイライトのひとつには、初期の「和平工作」の中で最も有望視されていた、ドイツの駐華大使トラウトマンによる日中間の仲介(トラウトマン工作)が挙げられます。日中戦争すべての時期にわたって戸部氏は、「和平工作」の争点を整理していますが、それをふまえて初期段階のトラウトマン工作が有効性が浮かび上がっているのです。その後は、トラウトマン工作に比すならば、失敗の連続といわざるを得ない展開が待っていました。いかに「ピースフィーラー」と呼ばれる非公式接触者が奮闘しようとも、事態は混迷を極めていったのです。つまり、日中戦争が泥沼の戦争であったことが、こともあろうに戦争の収拾のための努力の歴史である「和平工作史」によって示されているのです。このことに私は衝撃を受けました。
こうした日中戦争の「和平工作」の研究は、軍事・外交両面にわたる深い知識が不可欠となります。とりわけ、一次史料を駆使した研究を成し遂げるにあたってはなおさらです。このことは、戸部氏が本書以後に発表した研究成果によっても裏づけられます。

『日本陸軍と中国――「支那通」にみる夢と蹉跌』(講談社、1999年)、(『外務省革新派――世界新秩序の幻影』(中央公論新社、2010年)がそれにあたります。
近年の「和平工作」研究は、これまで詳細に分析されていなかったある側面が注目されています。通常は、中国側の主要なプレイヤーとしては、蒋介石を中心とする重慶政府、日本側の工作によって成立した、汪兆銘率いる南京政府、ゲリラ戦を遂行する毛沢東が指導する共産党という三者が想定されます。しかしながら、対日協力者は汪兆銘だけではありません。日本側はそれぞれの経路で、数多くの対日協力者を求めて動いていました。しかも、そうした別個に進められた行動は、統制がとれないままでした。
おそらくは、それぞれの部隊に別々の支援者がいる状態で、対日協力者を一本化することは、日本軍にとっては誰かの立場を切り捨てることになります。日本軍はそれを恐れたがゆえに、「和平工作」の一本化を果たせなかったのではないでしょうか。しかし、それぞれの部隊による工作の乱立を放置していたら、どうなるでしょうか? 決定的な瞬間に、中国に駐屯している日本軍内部で齟齬をきたすことにもなりかねません。まして、東京の中央政府における、人事異動や内閣の交代という問題もあります。在外の駐屯軍と中央政府との行き違いも考慮すると、日本側で「和平工作」の全体像を把握していた人物がいるのかどうかさえ、疑わしくなってきます。事実、「和平工作」の経過は、そのような混乱を含んでいました。
そのような日本軍の日中戦争に際しての戦略のちぐはぐさを分析する上で、汪兆銘だけではなく、他の対日協力者(中国人からすると漢奸と呼ばれた人々)の詳細に光を当てようとする試みが、近年なされているのです。次回の投稿では、そうした研究の一端と、最近入荷した日中戦争に関する額装品とアルバムを紹介していきます。
小野坂









