買取事例
武士火事装束をお譲りいただきました~現在の消防隊につながる歴史にふれる
先日、埼玉県行田市(天満)の方より買取のご依頼をいただきました。和本、戦前ラベル類の貼り込み帖、掛軸、古銭、切手、明治時代の紙もの資料等をお譲りいただきました。ありがとうございます!
今回はその中より、ちょっと珍しい一品を紹介します。
これは、火事装束という江戸時代の服飾です。
金の装飾があることから、武士火事装束の胸当ての一部かと思われます。町人の火消の火事装束は実用性に徹しています。
※風俗博物館 日本服飾史資料 武士火事装束
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000154
上半分の表裏はこのようになっています。
火消について、少し調べてみました。江戸の町は大火に幾度も見舞われましたが、本格的な消防組織として町火消がつくられたのは、1718(享保3)年、徳川幕府8代将軍・吉宗の時代でした。東京都消防庁によれば、町火消を創設したのは、時代劇でも有名な南町奉行大岡忠相とのことです。「いろは48組」のほかに本所・深川の16組があり、江戸には64組の町火消がありました。明治維新後の1872(明治5)年、町火消は東京府に移管され、消防組となりました。ただ、この後も消防の制度をめぐって紆余曲折があり、1881(明治14)年に警察・消防は全て東京警視庁の所管となりました。
こうした点から見ても、江戸から明治へ(近世から近代へ)という転換点を具体的に考える際に、「火消」から「消防」へどのように移り変わっていったのか、という観点を持つことは非常に重要なのではないでしょうか。しかもその経緯は、私たちの時代へつながる歴史でもあります。
※東京都消防庁 江戸の火消
https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/libr/times/times01.htm
※日本消防協会 消防の歴史
https://www.nissho.or.jp/nissho_or_jp/contents/static/syouboudan/rekishi.html
ところで、1999年~2000年に放送されたスーパー戦隊番組に、救急戦隊ゴーゴーファイブというものがありました。町火消の子孫の5人兄弟が災害を引き起こす悪者から地球を守るというお話でした。救急戦隊なので、彼らは悪者と戦うのと併行して、もう一方の重大な任務である救助活動も行っていました。その斬新な設定ゆえか、放送から20年を経た現在でもゴーファイブは、多くのファンを獲得しています。
最近では、ゴーゴーファイブのキャスト5人(西岡竜一朗、谷口賢志、 原田篤、柴田賢志、 坂口望二香)が5月5日に、「【報告】救急戦隊ゴーゴーファイブからのたいせつなメッセージです」というYouTube動画をアップしています。救急戦隊は不滅です!
くまねこ堂でもゴーゴーファイブのサントラを出品していましたが、すでに売れてしまいました。もし、DVDやサントラなどお譲りくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひともご一報ください。
※【報告】救急戦隊ゴーゴーファイブからのたいせつなメッセージです
https://www.youtube.com/watch?v=EzTTh1TCUnE
くまねこ堂は古本、骨董品や絵画、アクセサリーなど幅広いお品物の買取りをしております!お電話またはメールフォーム、LINEにて、お気軽にお問い合わせ下さいませ。スタッフ一同心よりお待ちしております!
小野坂
ギター、ウクレレ、マイクなどお譲りいただきました!
蒸し暑い日が続きますね!
くまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます
本日は神奈川県川崎市幸区に出張買取に行ってまいりました!
ギター、ウクレレ、マイク、アンプ、スネア、打楽器、CD、レコード、ペコちゃん人形等お譲りいただきました!ありがとうございます
お譲りいただいた中から打楽器を2つ写真付きでご紹介させていただきます!
こちらは捻るように横に振るとジャラジャラと音が鳴ります。ボールチェーンに程よい重みがあり、筋トレにも使えそう・・・?
こちらはゴム部分を押すと空気が筒を通り、ピューッ!と音が鳴ります。体育の授業で集合の合図に使えそうな音。
他にも沢山の楽しい楽器をお譲りいただきました!ありがとうございました
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なか
鉄道模型、ライダーカード、トミカなど、多数お譲りいただきました!
いつもくまねこ堂ブロクをご覧いただき、誠にありがとうございます
日毎に暑くなってき参りましたね。皆様体調にはくれぐれもお気を付け下さいませ。
本日は品川区のお客様よりご依頼をいただきまして、出張買取に同行させていただきました。
ご家族の方の子供の頃からのおもちゃなど古いお品物を色々と拝見させていただき、鉄道模型、Nゲージ、プラモ、メンコ、カルビーライダーカード、カルビー野球カード、昭和40年代、貯金箱、ソフビ、トミカ、黒箱、ミニカーなどなど、多数お譲りいただきました。誠にありがとうございます!
こちらはトミカのミニカーの黒箱です。もちろんトミカのミニカー自体が人気で貴重なのですが、元々入っていたこの箱が残っていないそうで、こちらも大変貴重なお品物なのですね。(なんとなく当時の新聞を下に敷いてみました)
仮面ライダーカードです!No.28 人くい花ドクダリアン。かっこいぃ。
仮面ライダー5円引きブロマイドもまとめて入荷。やはり怪人に目が行ってしまいますね。
カルビープロ野球チップスカードとボウリング場のミニパンフでしょうか。まさに昭和40年代です。
ウルトラ怪獣手帳も入荷しました。ギャンゴは怪力で象を1万1千頭もちあげられます。
お客様と色々とお話をさせていただきましたところ、なんと少し前にこういったおもちゃ類を大量にゴミとして出された後だったそうで、店主は心の涙を流しておりました泣。古いおもちゃやカードなどは捨てたりせずに是非くまねこ堂までご相談下さいませ。スタッフ一同、心よりお待ちしております
56さん
日本画家紹介シリーズ その⑥ ~近代彫刻家編~
くまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます!
日本画家紹介シリーズ第⑥弾です
今回は日本書画名覧の「近代彫刻家」の番付から作者を抜粋してご紹介させていただこうと思います。
「日本書画名覧」とは日本の書作品や絵画作品の作者をジャンルごとに分類し番付(ランキングのような形)方式で記載している品物になります。
こちらの日本書画名覧は明治四十五年六月に発行されたものなので、その当時の彫刻家の番付ということになりますね。
前回までのシリーズはこちら↓
日本画家紹介シリーズ その①~故人国書各派名家編~
日本画家紹介シリーズ その➁~現代国書各派名家編~
日本画家紹介シリーズ その③~故人南書名家編~
日本画家紹介シリーズ その④ ~現代洋書家編~
日本画家紹介シリーズ その⑤ ~古人浮世絵各派編~
またまた、画像ではわかりづらいので書き起こさせていただきます!
高村光雲、石川光明、竹内久一、海野勝珉、長沼守敬、白井雨山、新海竹太郎、沼田一雅、山崎朝雲、朝倉文夫、香川勝廣、岡崎雪聲、大熊氏廣、本山白雲、藤田文蔵、建畠大夢、米原雲海、北村四海、北村西望、海野美盛、渡辺長男、森鳳声、毛利教武、吉田芳明、大島如雲、杉本伝、水谷佳園、藤井浩祐、長愛之、松井信次、新野忠之助、細谷而楽、池田勇八、黒川栄勝、久野留之助、石井鶴三、平田宗幸、堀田秀鏡、加納鉄哉、鈴木鈴源斎、旭玉山、川上澹堂、堀進二、新田藤太郎、白井雨山、国方天海、山田政治、田口多州、柴田幸三郎、平坂芳文、小川静吾、小林誠義、平櫛田中、竹内友樹、佐藤金二郎、長束武雄、宇田川和雄、登山長蔵、安藤重兵衛、堀川光山、塚原賢雄、小林宗規、石川確治、上田直次、武石弘三郎、畑正吉、小倉右一郎、池田右八、宮本勝、服部唯三郎、伊東陶山、宮川香山、清水六兵衛、三浦竹泉、保井抱中、杉林古香、吉田三郎
この中から番付の一番初めに記載がある高村光雲について少しご紹介させていただきます!
高村光雲は江戸に町人の子として生まれ、11歳の頃に仏師という仏像を専門とする彫刻家の高村東雲の弟子になります。後に東雲の姉の養子に入り、高村姓となりました。
明治維新後、廃仏毀釈という仏教破壊運動が行われ、その影響から仏師としての仕事はなくなり、牙彫の流行により木彫の衰退を感じながらも木彫にこだわり続けます。そこから西洋美術を学び、西洋画の写実性を木彫に取り入れ、衰退しかけていた木彫を復活させます。
日本における近代彫刻の礎を築いた彫刻家の一人です。
代表作「老猿」に等にも見られる高村光雲の特徴は、西洋美術から取り入れたと言われる写実描写の精緻さです。
「老猿」の作品創りにおいて、モデルとなる猿は猿茶屋で飼っていた猿を借りてきており、栃木の山奥をまわりトチの大木を探し求め、自ら材質の選定をしたといいます。
その深いこだわりは観察の綿密さにも現れ、一つ一つの力強い毛の流れから老猿の貫禄が伝わってくるような迫力があります。
そして光雲の代表作の中には、東京の上野公園に設置された「西郷隆盛象」があります。
間近で光雲の技術、描写力を拝見したい方はぜひ遊びに行ってみてはいかがでしょうか
今回で日本画家紹介シリーズは最後となります。
ご覧いただいた方、ありがとうございました!
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なか
「故浅沼稲次郎日本社会党葬式次第」(1960年10月20日、日比谷公会堂)をお譲りいただきました~60年後の現在を考えるきっかけに
葛飾区鎌倉のお宅に買取にうかがわせていただきました!
陶磁器、洋食器、金銅仏、青銅器、懐中時計、アクセサリー、達磨、備前焼等をお譲りいただきました。ありがとうございます!
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別件ではありますが、先日の買取品の中より、「故浅沼稲次郎日本社会党葬式次第」1960年10月20日(於日比谷公会堂)を発見しました。
浅沼稲次郎(1898-1960年)は、早稲田大学在学中に日本共産党結党(1921年)に加わり、第二次世界大戦後は社会党の指導者として活躍した人物です。1960年の安保改定をめぐって社会党から右派が分離して民主社会党が結成された際、浅沼は社会党委員長に就任しました。一方の与党自民党は、1960年6月の日米安保条約の改定をめぐる安保闘争から岸信介内閣退陣、そして所得倍増計画を掲げる池田勇人内閣の成立(同年7月19日)というように、日米安保から経済成長に力点を移していきました。安保闘争が退潮していく中で、同年11月20日予定された衆議院総選挙の前哨戦となった各地の知事選の結果は、社会党推薦候補の惨敗に終わります。
そんな中で発生したのが、10月12日の浅沼稲次郎暗殺事件でした。現場は自民党・社会党・民社党3党首立会演説会が行われていたに日比谷公会堂。浅沼が登壇し、ヤジが一段と激しくなっていました。司会の静止によりいったんヤジはおさまったものの、次の瞬間、思いもよらぬ事態が発生します。浅沼が17歳の右翼少年・山口二矢に刺殺されたのです。
各党首の演説会の場での暴力の問題、それを防げなかった警備、政治報道・事件報道のあり方など、現在でも議論が両極端に振れがちな主題が散見されます。議会制民主主義のルールに則った上での対立において政治的な緊張を維持し、よりよい政策の形成へとどのようにつなげていくべきなのか。現在の視点から、歴史的事実もふまえながら考えていく必要があります。それは、国会審議が議論として成り立っていない現在だからこそ、正面から取り組むべきなのではないでしょうか。
そのような観点で見ると、上掲の追悼歌のメッセージも当時とは異なった形で受け取れるのかもしれません。それは必ずしも、「二大政党制」「社会党政権」の実現を一つのゴールとする話ではありません。議会制民主主義のルールに則った上での対立の困難さを振り返るとき、「野党」あるいは「左翼」の言い分にまずは耳を傾けるべきではないでしょうか。
くまねこ堂は古本や古記録はもちろん、骨董品や絵画、アクセサリーなど幅広いお品物の買取りをしております!お電話またはメールフォーム、LINEにて、お気軽にお問い合わせ下さいませ。スタッフ一同心よりお待ちしております!
小野坂
日本画家紹介シリーズ その⑤ ~古人浮世絵各派編~
だんだんと日差しが暑くなってきましたね!
くまねこ堂ブログをご覧いただきありがとうございます!
日本画家紹介シリーズ第5弾目になります
今回は日本書画名覧の「古人浮世絵各派」の番付から日本の書画、絵画作品の作者を抜粋してご紹介させていただこうと思います。
「日本書画名覧」とは日本の書作品や絵画作品の作者をジャンルごとに分類し番付(ランキングのような形)方式で記載している品物になります。
前回までのシリーズはこちら↓
日本画家紹介シリーズ その①~故人国書各派名家編~
日本画家紹介シリーズ その➁~現代国書各派名家編~
日本画家紹介シリーズ その③~故人南書名家編~
日本画家紹介シリーズ その④ ~現代洋書家編~
江戸時代以前、戦乱の世が続く苦しい時代に世を嘆く言葉として「憂世」が使われていましたが、江戸時代が始まり、はかない世の中であるのなら浮かれて遊ぼう、という享楽的価値観が生まれ、「憂世」は「浮世」に文字を変えました。そうして世を謳歌しようとする人々の姿など、当時の社会風俗を描いたものを「浮世絵」と言います。
今回ご紹介するのはこの日本書画名覧発行当時明治45年6月時点での故人の浮世絵画家の番付、ということになります。
また画像では分かりづらいかと思いますので書き起こさせていただきます!
岩佐又兵衛、菱川政信、宮川長春、鳥居清信、鳥居清倍、鳥文斎栄之、礒田湖龍斎、西村重長、鳥山石燕、鳥居清満、菊川英山、歌川広重、恋川春町、菱川師永、西川祐信、窪俊満、西川祐尹、富岡永洗、倉橋豊国、宮川春水、月岡芳年、菱川師房、歌川国貞、葛飾戴斗、奥村政信、勝川薪水、歌川豊春、歌川国芳、菱川師宣、喜多川歌麿、菱川友房、宮窪北斎、柳川重信、宮川房信、鈴木春信、喜多川歌麿(2代目)、古山師政、鈴木春信(2代目)、石川豊信、堤等琳、鳥居清峰、渓斎英泉、鳥居清長、羽川珍重、歌川豊広、北尾重政、歌川国政、喜多川月麿、歌川国安、堤雪峰、小松屋百亀、卍楼北鵞、山東京伝(北尾政演)、有北坂馬、古山師重、喜多美麿、喜多川雪麿、山斎泉隣、近藤清春、南澤船ニ、葛飾北嵩、葛飾北斎
浮世絵といえばその魅力は海外にも広く知れ渡り、モネやマネ、ゴッホにも影響を与えました。
モネの代表作の一つ「睡蓮」は、自宅の庭で描かれたものですが、その庭にかけた日本風太鼓橋の参考にしたと言われているのが歌川広重の「名所江戸百景・亀戸天神境内」です。
モネは歌川広重の作品のどこに魅力を感じたのでしょうか。
歌川広重を少しご紹介させていただきます。
歌川広重は江戸時代の人気浮世画家です。江戸城の消防を職務とする下級役人の子として生まれ、わずか13歳でその跡を継ぎました。火消同心という本業を持ちながら、浮世絵師、歌川豊広に弟子入りし、16歳の時に「歌川広重」の名前で浮世絵師として活動していきます。
早くから人気が出たわけではなく、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」の大流行などにより、影に隠れていた時期もありましたが、都と江戸をつなぐ東海道の道中での写生をもとにした「東海道五拾三次」で人気に火が付き、歌川広重の名前が広く知れ渡るようになりました。
「東海道五拾三次」、「名所江戸百景」など、広重の描く浮世絵の特徴として、風景の遠近感が非常に自然なことが挙げられます。そして自然な描写を得意としながらも、大胆にデフォルメし、遠景と近景の対比をつくりだす構図の面白さがあります。その風景と共に描かれる人々は情感に満ち活き活きと描かれ、輪郭線があり平面的な画面と共存するリアリティーは西洋画家に新鮮な驚きをもたらしたのではないでしょうか。
今回のご紹介はここまでとさせていただきます
くまねこ堂は古本、骨董品や絵画、アクセサリーなど幅広いお品物の買取りをしております!
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なか
日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきました!~その4(結)日露戦争を偲んで「金州駅ヨリ南山ヲ望ム」
先日、東京都町田市木曽東での即日出張買取にうかがわせていただきました。学術書、専門書、格闘技、プロレスDVDなどをお譲りいただきました!ありがとうございます!
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これまで3回にわたり、日露戦争30周年を記念した写真帖、それとともにお譲りいただきました絵葉書について、昭和戦前期(1930年代)の観光産業の発展との関連でご紹介してまいりました。前回は、1910年5月14日から10月31日にかけてロンドンで開催された、日英博覧会を記念して発行された絵葉書を取り上げました。
※日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきました!~その3 帝国日本にとっての2つの1910年(くまねこ堂骨董ブログ、2020年5月9日)
https://www.kumaneko-antique.com/16050/
その1、その2につきましては、下記リンクをご覧ください。
※日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきました!~その1 昭和戦前期の観光業の隆盛と戦跡めぐり(くまねこ堂骨董ブログ、2020年5月4日)
https://www.kumaneko-antique.com/15955/
※日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきました!~その2 絵葉書になる歴史上の人物とはどんな人物?(くまねこ堂骨董ブログ、2020年5月6日)
https://www.kumaneko-antique.com/16034/
これまで述べてきたように、昭和戦前期、とくに1930年代半ばの日本は、外地の朝鮮や満州への旅行が盛んでした。そして、そうした旅行先に選ばれたのが、日清・日露戦争の戦勝記念史跡でした。
お譲りいただいたものの中には、1930年代半ばと思われる遼東半島の大連の様子を写した写真があります。大連は、1895年の日清戦争の講和に際しての三国干渉の結果、ロシアの租借地となりました。その後、1905年の日露戦争の講和により、この地は日本の租借地となり、日露戦争の戦果を象徴するものの一つに数えられました。
この大連旅行に際しての写真も、ブログその1で述べたような、日露戦争戦勝30周年記念と外地旅行の振興といった歴史的背景から無縁ではないように思われます。
キャプションがついている写真ということでは、以下のものがありました。
上掲の写真は、下部に「大連旧露国寺院」と記載されています。1930年代半ばの旅行案内などを調べれば、これと同じロシア式寺院が紹介されているかもしれません。
次の写真は、おそらく日露戦争の激戦を偲んで撮影されたものだと思われます。
この写真の下部には、「金州駅ヨリ南山ヲ望ム」とあります。 南山とは、遼東半島の金州城南近に位置する南山のことですが、日露戦争の戦場でした。この南山での戦いは、要塞化された陣地に立て籠もったロシア軍による機銃掃射に対し、日本軍が三度の突撃の末に南山を占拠するという激戦になりました。日本軍は勝利したとはいえ、多大な損害を被りました。ドラマや小説でも取り上げられてきましたが、第三軍の司令官・乃木希典の息子で第二軍に所属していた乃木勝典は、この戦いで戦死しました。
ちなみに、南山の戦いの日露両軍の配置を記録した地図によると、金州停車場付近に布陣した日本軍が東から西へ、南山のロシア軍陣地に向かって進軍していったことがわかります。そうすると上掲の写真の方向は、日本軍の進行方向と一致していることになります。このように日露戦争の南山の戦いの経緯や、写真が撮られた方向をあわせて考えると、この写真には日露戦争を偲ぶ意図があるというのも、あながち間違いではないかもしれません。
※明治卅七八年日露戦史. 第1巻 附図十二 南山附近第二軍之戦闘(五月二十六日)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774357/57?tocOpened=1
ところで、1935年に日露戦争勝利30周年を祝った日本は、1937年以降中国との事実上の全面戦争に突入します。当時の中国の首都南京を日本軍は占領しますが、その後の掃討戦(に名を借りた略奪・強姦など)は凄惨を極めました。その様子は、在外公館員の避難もあり公的記録に残らない中、現地のキリスト宣教師や国際的なキリスト教団体の活動家の記録に残されています。
驚くべきは、日露戦争勝利30周年を祝った観光と同じように、中国の首都南京陥落を祝った南京旅行のガイドブックや絵葉書セットが発行されていたという事実です。この点については、下記リンクの、近代日本史研究者のポートランド州立大学准教授・ケネス・ルオフ氏による学習院大学での講演で教えられました。
※ケネス・ルオフ「移動する帝国―絵葉書が語る大日本帝国―」『学習院大学国際研究教育機構研究年報』第2号(2016年)、4-21頁
https://bit.ly/2VJKoU4
戦争の勝利を記念することと、観光産業の振興という結びつきに関して、30年前の日露戦争を偲ぶ、ということなら正直にいって想像の範囲ではありました。しかし、日中戦争の場合は、現在進行形の戦争が観光コンテンツになっていました。この事実はどのように受け止めればいいのでしょうか。事の重大さに加え、あまり事実関係が解明されていないということもあわせ、この問題は今後の日本史研究の課題といえましょう。なお、これに関連して、戦時郵便に関するご資料もお譲りいただいたことがございます。下記リンクをご覧くだされば幸いです。
※郵政官僚の従軍アルバムのご紹介その2 日中戦争期の野戦郵便局の写真がございました!(くまねこ堂骨董ブログ、2020年3月11日)
https://www.kumaneko-antique.com/15537/
くまねこ堂では歴史資料・古記録などの買取のご依頼大歓迎です!その他にも、古道具・骨董品などの買取も行っております。ご遺品整理などでお困りのお客さまも是非お申しつけ下さい。
お電話またはメールフォーム、LINEにて、お気軽にお問い合わせ下さいませ。スタッフ一同心よりお待ちしております!
小野坂
トリオ・ザ・パンチ他芸人さんのサイン色紙をお譲りただきました☆彡
こんにちは
なぜが最近肉が食べたいくまねこ堂スタッフです。
最近過ごしやすいお天気や気温の日が多いからでしょうか、、、
先日は、千葉県野田市のお客様より、
サンリオ、絶版漫画、昭和40年代物、内藤ルネ、モンチッチ、ガラスケース、CD、レコード、カメラ、ディズニー、グリコのおまけ、煙草入れ、煙管等!
即日出張でお伺いさせていただき、お家1軒様々なお品物をお譲りいただきました。
御依頼、誠にありがとうございました。
その中から、こんなサイン色紙がございましたので、ご紹介させていただきます。
日本の高度経済成長期、昭和60年~70年代頃に「おら、ハアド・ボイルドだど!!」というネタで一世を風靡した、トリオ・ザ・パンチ(内藤陳、井波健、久里みのる)のサイン色紙です!!!
40代以上の方で、記憶にある方、いらっしゃいますでしょうか(*^-^*)
この内のおひとり、内藤陳さん、その言葉の通りハードボイルド作家の一面もあり(!)、
月刊プレイボーイで連載をお持ちだった「読まずに死ねるか!」シリーズを、書籍化されていらっしゃいます。しかもお父様も作家で、プロレタリア文学作家の内藤辰雄さんです。
なんという血筋。
この色紙に描いてあるアゴが特徴的なイケメソも恐らくご本人の絵でしょうか(*‘ω‘ *)
あと、スタッフが個人的に調べて知ったことで気になるのが、内藤陳さんが開いた
「深夜+1 (しんやぷらすわん)」という、新宿ゴールデン街のバー!
新宿3丁目にあるそうで、ググってみたら食べログもありました( ´艸`)
新宿の飲み屋街は九龍城かっ!ってツッコミたくなるようないろんなお店があって面白いですよね。だからちょっと行ってみたい!(今は行けないですが、いつか是非)
他、コント55号!!牧伸二さん等など、漫才師の神様
のような方々の色紙もお譲りいただきました。
大切にお持ちでしたお品物を、ありがとうございました。
少しでもお役に立てたのであれば嬉しいです!また何かお売りになりたいものがございましたら、お気軽にご相談くださいませ
かこさん
日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきました!~その3 帝国日本にとっての2つの1910年
先日、東京都町田市鶴川での即日出張買取にうかがわせていただきました。掛軸、香蘭社、象彦などをお譲りいただきました!ありがとうございます!
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日露戦争30周年を記念した写真帖、それとともにお譲りいただきました絵葉書について、昭和戦前期(1930年代)の観光産業の発展をヒントにご紹介してまいりました。その1では、前回は日露戦争記念の陸海軍写真帖と、これと同時期に発行された昭和10年頃の「旅行案内」との関連性を取り上げました。その2では、修学旅行と史跡観光とのセットが定着していくにあたり、1930年代の観光産業にその起源があるのではないか、という仮説に関係するような絵葉書を扱いました。
※日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきました!~その1 昭和戦前期の観光業の隆盛と戦跡めぐり(くまねこ堂骨董ブログ、2020年5月4日)
https://www.kumaneko-antique.com/15955/
※日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきました!~その2 絵葉書になる歴史上の人物とはどんな人物?(くまねこ堂骨董ブログ、2020年5月6日)
https://www.kumaneko-antique.com/16034/
今回は、これまでも述べてきた時代背景である、外地の朝鮮や満州への旅行が盛んだった1930年代半ばの日本により迫っていきます。この問題を考える際には、その観光先として鉄板のコンテンツとなっていたのが日清・日露戦争の戦勝記念史跡だったこと、両戦争の実際の戦場は、朝鮮半島や中国東北部(満州)だった事実が重みを持ってきます。ここまでは、くまねこ堂ブログにてすでに述べたことですが、この歴史には当然続きがあります。そのヒントも、今回お譲りいただいた絵葉書の中に潜んでいました。
その絵葉書とは、1910年の日本の国際的地位に関わる出来事を扱ったものです。
この絵葉書は、1910年5月14日から10月31日にかけてロンドンで開催された、日英博覧会を記念して発行されたものです。絵葉書自体は昭和期のものと思われます。この博覧会は、日本初の国際相互博覧会となりましたが、その実現に向けて小村寿太郎外相が活躍しました。また、日本が関税自主権を回復するための条約改正は翌年に実現しますが、それを日本側で主導したのは、いうまでもなく小村外相でした。明治の45年間のそのほとんどをかけた交渉の末、ようやく日本はイギリスから平等扱いされるようになった、と当時の日本人が感じるような出来事が1910年、1911年にあったわけです。
ただ、こうした日本人にとっての「お祝い事」は、それだけではありませんでした。イギリスを始めとした欧米の列強は、国内の体制は近代の国民国家であると同時に、外に向けては植民地獲得競争に明け暮れていました。明治日本の政治指導者は、この点でも欧米と同格になることを望んでいました。この文脈での重大な出来事で、しかも1910年だというのなら、他でもありません、韓国併合です。1910年8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて日本は、大韓帝国を併合して統治下に置きました。8月29日のことですので、日英博覧会の会期中であることは明白な事実です。だとすると、この日英博覧会は、ヨーロッパとアジアの植民地帝国の共催ともいえ、単なる「お祝い事」とだけ捉えることはできないような気がしてきます。
こうした2つの1910年に着目すると、朝鮮半島や中国東北部(満州)の日清・日露戦争の戦勝記念史跡が、観光コンテンツと化していく流れを理解するヒントが得られるかもしれません。日露戦争は当時の日本の軍事力・経済力を超えた無茶な戦争であったわけで、国民に多大な負担を強いました。講話条約に不満を持った民衆は暴動を起こしました。とても国民的なお祝い事になるとは思えません。それがいつのまにか「偉大な明治の成功体験」になっていたのはなぜでしょうか。こうした疑問に答えようとすると、1910年日英博覧会がどのようなもので、それは後々にどのように記念されていったか、日英共催のお祝い事は韓国併合どのような関係にあったのか、といった問題を検証しなくてはならないように思われます。
次回も、こうした問題に関わって、昭和戦前期の満州、とくに大連の写真などを取り上げてまいります。引き続きご覧くだされば幸いです。
くまねこ堂では歴史資料・古記録などの買取のご依頼大歓迎です!その他にも、古道具・骨董品などの買取も行っております。ご遺品整理などでお困りのお客さまも是非お申しつけ下さい。
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小野坂
日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきました!~その2 絵葉書になる歴史上の人物とはどんな人物?
先日、国立市に買取にうかがいました。三室小石、酒井 雄哉、三浦小平二、坂田泥華、三輪休雪、島岡達三、田辺 三重松、平山 郁夫、といった陶芸家、書家、洋画家、日本画家の作品や、木彫、仏像、古銭、銀杯、腕時計等を多数お譲りいただきました!ありがとうございます!
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さて、5月4日のくまねこ堂ブログにて、日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきましたこと、お伝えいたしました。前回は日露戦争記念の陸海軍写真帖と、これと同時期に発行された昭和10年頃の「旅行案内」を取り上げました。そして両者の関連から、日本の観光産業の発展が垣間見えるのではないか、という観点で紹介いたしました。
※日露戦争を記念した写真帖、絵葉書などをお譲りいただきました!~その1 昭和戦前期の観光業の隆盛と戦跡めぐり(くまねこ堂骨董ブログ、2020年5月4日)
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改めてこの点を説明すれば、次のようになります。1930年代半ばの日本は、交通網の発達もあり、国内旅行どころか、外地の朝鮮や満州への旅行が盛んでした。その観光先として強力な、あるいは鉄板のコンテンツとなっていたのが、日清・日露戦争の戦勝記念史跡だったのです。両戦争の実際の戦場は、朝鮮半島や中国東北部(満州)であったことを思い返す必要があります。もしかすると、修学旅行と史跡観光とのセットが定着していったのは、この時期の観光産業の勢いと関係があるのかもしれません。
そこで前回の予告のとおり、あわせてお譲りいただきました絵葉書や満州で撮影された写真を取り上げていきます。まずは、前述した「修学旅行と史跡観光とのセット」という仮説に関わる絵葉書を見ていきます。
上掲の絵葉書は、鎌倉時代末期の北条氏金沢流の武将とされる、北条貞将(ほうじょう・さだゆき)です。鎌倉時代末期の倒幕運動の中で幕府軍の将として各地を転戦して活躍しましたが、新田義貞軍に敗れて壮烈な最期を遂げたことで知られています。なお、この場面は軍記物語『太平記』の名場面のひとつに数えられます。
鎌倉幕府滅亡への道で数々のドラマが生まれましたが、そのような悲惨さと勇敢さがない交ぜになった逸話に直面したとき、どのような感慨を抱くかはともかくとしても、私たちはなかなか素通りできないものです。この北条貞将の戦死やそこにいたる人生が史跡観光のコンテンツとして、あるいは教材として扱われたとしても不思議ではないように思われます。
こちらは、鎌倉幕府打倒で活躍し室町幕府を開いた足利尊氏の四男にして、初代鎌倉公方の足利基氏です。基氏は武芸に秀で、かつ教養ある人物として伝えられ、しかも28歳の若さで亡くなったこともあり、講談において脚色し甲斐のある要素が詰まっています。
「絵葉書化」という側面から見た場合、和歌や料理の造詣が深いという点が注目に値します。基氏が詠んだ和歌で扱われた名所、あるいはご当地の料理などをもとにして、強力な観光コンテンツと化していたことでしょう。
北条貞将にしても、足利基氏にしても、絵葉書となる理由に事欠かない歴史上の人物であったといえるでしょう。
次回は、冒頭に述べたもう一つの観点に迫ります。1930年代半ばの日本は、交通網の発達もあり、国内旅行どころか、外地の朝鮮や満州への旅行が盛んだったこととの関連を思わせる、ある絵葉書を紹介する予定です。若干の予告をすれば、その絵葉書とは、1910年の日本の国際的地位に関わる出来事を扱ったものです。どうか引き続きご覧いただければ幸いです。
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小野坂